大天使は弓をつがえ、月を落とす
1、告白(罪と愛)

 学校の七不思議のひとつに、チャペルの天使様がいる。
 悩んでいた生徒がチャペルで祈っていたら、天使様に出会ったのだそうだ。無性の美貌と白い雙つの翼をもった天使様で、彼に伝道をもたらしたらしい。実際どんなことをしてくれたのかはよくわかってない。大体、その生徒がなにで悩んでいたのかもよくわからないみたいで、天使様が現れたっていう話だけが、伝わっている。
 夕方になると、神父さまもお帰りになり、そのチャペルは無人になる。あたしは一人で、チャペルへむかって歩いていった。校庭は夕陽に染まっている。
 もうすぐ終わる夏の、夕暮の太陽の色が好きだった。なんだか懐かしい色で、色々なことを思い出す。そんな気持ちに浸るのが、好きだった。
 ゆっくりとチャペルの扉を押して開ける。
 夕陽の赤い光に当たって、ステンドグラスが美しく輝いていた。中の空気はなぜかひんやりとして神域を感じさせる。別の世界に踏みこんだような気さえした。
 学校にチャペルはあるけれど、ミッション教育があるわけではないのでここ来る機会はあまりない。1クラス分が入れる程度の小さなチャペルだし。
 でも、こんな雰囲気は素敵だな、と思った。
 真正面にある十字架上のイエスさま。その背後にあるステンドグラスは、大天使ミカエルの姿だと聞いた。
 きれいはきれいなんだけど、あれが学園の七不思議で言われている天使様なのかと思うと違うような気がする。だって、神々しくてもステンドグラスにいる天使様はひらべったい。
 生徒の前に現れた天使様は、まさかひらべったくないだろう。
 あたしの前にも、現れてくれたらいいのに。
 小さくため息をつくと、あたしは椅子に座ってステンドグラスを見た。
 しばらくぼうっとしていると、チャペルの戸が開く。こんな時間に人が来るなんて、と思ってふりかえると、それは長尾先輩だった。
 すごい偶然だ。長尾先輩は去年の生徒会のメンバーで、あたしは今年度、生徒会に参加しているので、よく顔を合わせている。……実を言えば先輩はあたしの憧れの人だ。呼び出したわけでもないのに、こんなところで二人きりになるなんて出来すぎてる。
 心臓が、とくん、と鳴った。
「あら、先客か」
 先輩も、人がいたのを意外に思ったらしい。あたしは立ち上がって、先輩を見た。
「先輩、どうしたんですか」
 逆光でいまいち、先輩がどんな表情をしているのか見えなかった。けれど、いつもの先輩の様子と変わらないようだ。入って来たとき、なんとなくいやな感じがしたから先輩が怒っているのかと思ったのだけれど。先輩は落ち着くためにチャペルに来たのかも、と考えたくらい。
「なんだ、乾か」
 先輩はあたしを見て苦笑いした。
「入ってもいい?」
 先輩は言って、足元を指差した。別に、いいとか悪いとか言うことじゃない。あたしはうなずいた。先輩は、あたしのすぐ傍まで来て立ち止まった。どきどきする。
 今度は、先輩があたしになにをしていたのか聞く番だった。
「乾はここでなにをしてたの?」
「特に。ぼうっとしてただけですよ」
「なにかお祈りでもしてたのか? ここってジンクスあるからな。ステンドグラスの天使様に愛と罪の告白をして祈ると、願いが叶うってやつ」
 先輩はおかしそうに、笑ってる。あたしが聞いた七不思議の話とは少し違った。愛と罪の告白?
 なんだか心を読まれているような気がして、落ち着かなかった。先輩は物事に鋭いほうなので、あたしが彼を好きだっていうこともばれているんじゃないかなって思ってたんだけど、こんな風に言われるっていうことは、そうでも、ないのかな。それとも、わかってて、聞いてくるのかな。
 よく考えたら、これって絶好のチャンスに違いない。
 けど、いくら夕暮れのチャペルで二人きり、なんて出来すぎたシチュエーションでも、いきなり告白する勇気は出ない。そんなつもりじゃ全然なかったし。
「……そうなんですか? あたしは、ここに天使様が本当に出るって聞いたんですけど」
「へえ。そういう話もあるんだ。神村と相川がくっついたのって、神村のお祈りのせいだって聞いたけど」
「神村先輩が?」
 神村先輩はやっぱり去年の生徒会のメンバーだったから、もちろん知ってる。そんなに親しいわけじゃないけど、チャペルで祈ったなんて聞いたら思わず笑ってしまう。男の子ならなおさら、あまり見られたくないだろうし、自分からも言ったりはしないと思うんだけど。聞いちゃっていいのかな。
「うん。冗談だったのかな。騙されたのかもしれないし。あ、俺が言ったって、言わないでよ」
「言いませんよ。神村先輩に直接なんて、聞けないし」
「だよな。いくらあいつでもさ」
 ……なんか、変だな。先輩が、すごく近い気がする。チャペルの通路が狭いせいかな? 意識したら、急に鼓動が早くなって来た。やっぱり先輩、あたしが先輩を好きだってこと、気づいてるのかな。それでこれだけ近いって言うことは、告白してもいいってことなのかな。
 先輩の顔を見ていられなくて、少しうつむくと先輩の襟元が見えた。熱いからか、制服のネクタイを緩めている。……先輩って、こんな風に着崩して制服を着たりしないのに、珍しい。
 しかもそれがかっこいいから、いてもたってもいられない。
 あたしは何気なく話題を続けるようなふるまいで、先輩の傍を離れた。祭壇のほうに近寄って、ステンドグラスの天使様を見上げるふりをした。
 告白するなら、迷ってる暇なんか、ないよね。いつだれが来るともわからないのだし。でも、なんて言ったらいいのかな。ああそうだ、先輩が言ってた七不思議の話。ええと、愛と罪の告白をするとかって言ってた。愛と罪? なんか、変なの。
 そうすると願いを叶えてもらえる?
「愛だけじゃなくて、罪の告白もしなきゃいけないんですか?」
 あたしはそう聞いてみた。愛の告白って言うなら、わかる。「あの人が好きだから結ばれたい」とかね。
 でも、罪の告白って一体なんだろう? 一体なんの罪を告白すればいいんだろう。なんでもいいの? それとも、好きな人への罪を言わなくちゃいけないのかな?
 先輩は静かに応えた。
「罪のない人間なんかいないだろ」
 罪って、なんだろう。そんなこと考えたこともなかった。それからふと、チャペルの中はずいぶん涼しいな、とあたしは思った。冷たい風なんか吹いていないのに、背筋がぞっとする。
 話題に困って、あたしはイエス像の前で硬直してしまった。立ち去るのも変だし、どうしようと思っていたら、先輩がからかうような口調で言った。
「乾は、お祈りしてみないのか?」
「あたしですか?」
 もしかして先輩は、お祈りをしに来たんだったのかな。あたしがいたから、出来なかったけど。邪魔だったかな。
 そう考えると苦しい。やっぱり、先輩が好きだなんて、簡単に言えない。
 それからあたしは振り返ったんだけど、どうしても頬が引きつった。
「そうだな、あたしもお祈りしてみようかな。ほら、先輩と幸せになりたい、とか」
 冗談ぽく言ったのだけれど、どうかな。
 先輩はにこりと笑った。それから真面目くさった顔をして、あたしのほうに近づいて来た。
「こういうジンクスはないのかな。このチャペルでキスをすると、二人は死んだ後も永遠に引き裂かれることはないとか……さ」
 そう言って、先輩はあたしの前に立った。やっぱり背が高い。肩幅のがっしりとした体の、崩した襟元を、あたしの視線はさまよった。それ以上見あげると、まともに先輩と目が合ってしまう。それはさけたかった。
「乙女」
 彼は淀みなくあたしの名前を呼んだ。先輩、あたしの下の名前って知ってたんだ。それだけではっとしてあたしは先輩の顔を見上げ、その結果として目が合った。
 先輩はゆっくりと接近して来る。どうしていいのか、わからない。こんないきなりの展開って、ありなんだろうか。先輩はやっぱり、あたしが先輩のことを好きだって知ってるのかな。それで、これって、先輩もあたしのことを好きだって言う意味なのかな?
 くらくらする。まだ、キスもしてないのに。どうにかなっちゃいそう。
 だって、キスしたら永遠に引き裂かれることもないなんて、そんないきなりすぎる。先輩のことは好きだけど、気持ちを確かめてないし。……って、そういうことじゃないよね。
 先輩の両手が、あたしの肩に優しく触れた。そして唇の端に、先輩の唇を感じた。チャペルの空気みたいに、少し、冷たい。
 キスするんだ、そう思って体から力が抜ける。先輩の手があるから、それでも平気。……そう思ったとき、けたたましくあたしを呼ぶ声が聞こえてきた。
「乙女ー!」
 高めの声で、あたしを呼んでる。そして、静かなチャペルのドアを遠慮なく開けてくれた。
「おい、乙女。ここに……いや、ごめん。ほんと、失敬」
 見ないでもわかるけど、チャペルの扉を開いたところにはあたしの幼馴染が立っているはずだ。孝介があたしを探していた理由はわかっている。
 今日は、稽古の日なのだ。あたしと孝介は、小学校の頃から一緒に弓道を習っている。ついでだから、いつも待ち合わせて一緒に行っている。
 先輩はぴたりととまり、見る見る顔をゆるませて、最後には顔を背けて大笑いし始めた。
 ……いくらなんでもひどくない?
 孝介はすっかり呆れてる。先輩は、なんとか笑いをおさめて、立ち尽くしている孝介の傍まで行って、ぽんぽんと肩を叩いた。
「いや、俺こそ。乾も俺をからかうからさ、ちょっと俺も悪ノリしちゃっただけだから。かすっただけだし、安心しろよ。チャペルのジンクスって言うのって、乙女心をくすぐるだろ。ほんと、悪かったな、ごめん高宮」
 孝介ははあ、と気のない返事をした。邪魔をしたことを本当に悪いと思ってもいなさそうだ。
「俺はこいつが先輩にゴーカンされようと先輩にオモチャにされようと構いませんけど? 俺は、稽古に行く時間に遅れるっていうのを言いに来ただけで」
 孝介の性格なんて、長い付き合いだからわかってるけど、そういう言い方はないと思う。もう少し反省した態度を見せてほしい。
「そう、なら急いだほうがいいんじゃないのか。じゃあ、また。適当なジンクス、探しておくよ」
 そう言って先輩は、チャペルを出て行った。ああ、ああ、ああ、もう、タイミングが悪すぎる。それに適当なジンクスって。先輩があんなこと言うなんて思ってもなかった。適当って、適当って、ひどすぎる。
 先輩を見送った孝介は、顔を真っ赤にして立ち尽くしているあたしを見て、まじめな顔で言い放った。
「なあ乙女。……笑っていい?」
 いいわけないんだけど、もうなにも言えない。孝介はしゃがみこんで、大爆笑をはじめた。もう、腹が立つ。
「孝介、急がないと遅刻するって言いに来たのは、あんたでしょ!」
「ヒーヒー、いや、俺がもう少し笑うくらい時間はあるだろ、ああ、ほんと、おかしい……!」
 おかしくなんかないわよ、ちっとも!



 毎週水曜日の五時から七時まで、あたしたちは家の近所にある弓道場に通っている。孝介がはじめた弓道で、誘われてあたしも習うようになった。あたしはそんなに上達しなかったけれど、孝介は今年のインターハイにも出られそうなくらいの腕前になってるって話だ。あたしと孝介は本当にただの幼馴染で、恋愛感情なんて少しもない、兄弟みたいなものだ。
 孝介はあたしに教えてくれるふりをしながら、楽しそうに聞いて来た。
「結局さぁ。あの人、わかってないのか」
 どうして、たかが幼馴染の孝介が、あたしが先輩を好きだってこと、知ってるんだろう。教えたつもりはないのに。
「なにを、よ」
 今日はひどく不調だ。近的の的にすら、かすりもしない。もう五本も射ているのに、一本も当たっていなかった。孝介はこっちを覗きこんで来るけれど、きりきりと弓をつがえて、あたしはもう一度、射た。孝介は勢いにおされて数歩さがる。
「危ないな、人が近くにいるのに」
「じゃあ遠ざかればいいでしょ」
「いらいらするから当たらないんだろ。力がはいりすぎて、肘も曲がってるし、背筋もぶれてる。当たるわけない」
「うるさいわね」
「で、長尾先輩はおまえが先輩のこと好きだって、気づいてると思う?」
 どうにもその話をしたいらしい。気分は最悪だった。こんなんじゃ矢が当たるわけがない。思い出させないでほしいかった。
「うるさいってば」
「人がせっかく心配してるのに。今日だって、俺が行かなかったらなにをされていたか知らないぜ。二人っきりで他にだれもいないチャペルなんてさ。あのまわり、人も来ないじゃん」
 大笑いまでしたくせに、よく言う。あたしはじろりと孝介をにらんだ。
「……ゴーカンされたって構わないとか、言ったくせに」
「別におまえがいいんならいいけど」
 いいって、どうなのかな……そりゃああたしは、先輩のことが好きなんだし。でもいきなり、あんなふうにキスされそうになるのなんて考えてもなかった。その先なんて、ちょっと想像できない。
 けど、先輩はどういうつもりだったのかな。あたしが先輩を好きだってことは、気づいていると思う。けど、先輩は?
 あたしは、さっきの先輩の行動がいまいち、計れていなかった。長尾先輩は軽い人じゃないし、今まで彼女がいたって話も聞かない。わりともてるのは知ってるけど、男の子の友達といるほうが好きなタイプに見える。下品な話をしてるのは、聞いたことないし。いつだって、優しいし。
 だから、いきなりあんなことがあったのはすごく驚いた。
 あたしがちゃんと告白したらまじめに返答してくれる人だと思ったのに、あんな冗談で好きって言っただけでキスなんて普通、しない。
 露天の道場には、涼しい風がふきこんでくる。あたしは弓を下ろして、空を見た。少し落ち着いて、気分を変えたい。的にむかって右手側に、まだほんのりと夕陽のあかりが取り残されていて、そのあたりに月が浮いていた。ほとんどまんまるだ。
 それを見ながら、あたしは先輩のことを思う。先輩には、淡い紺色がよく似合うと思う。こんな時間の真上にある空の色だ。うちの制服の色も同じで、先輩が着るととてもかっこいい制服に見える。
 孝介は、いやな感じで笑った。
「いいのかよ、このまんまで。次に二人きりになるとき、恐かったりとかしないのか?」
「先輩はそんな人じゃない」
 さっきから、孝介もひどい言いようだ。そりゃあキスは面食らったけど、先輩があんなところで押し倒したりするような人じゃないって言うのは、信じてる。
「わかんないだろ。男なんてそんなもんだよ」
 孝介はいやに知った顔だった。先輩のこと、よく知ってるわけでもないのに。むかついたのであたしは、孝介に言ってやった。
「あんた、ゴーカンでもされたことでもあるわけ? あってから言ってよね」
「そりゃあないよ。でも俺は夢見がちな乙女よりは進んでると思うぜ。長尾先輩のあの言い訳はどうかと思うけど?」
 適当なジンクスっていう先輩の捨て台詞が、あたしだってものすごく引っかかっている。
「そんなことない。今日の先輩は、いつもと違ったの」
「それは、おまえの思いこんでた先輩と違ったんじゃなくて?」
 あたしはその言葉に硬直し、孝介を見た。いやな感じ。まるで、あたしが先輩のことちゃんと見てないみたいじゃない。けど、すごく痛いところを突かれた気がする。
「図星だろ」
 ふふん、と孝介は笑う。
「な……なんだって言うの」
 孝介は口元を歪めると、遠的の方に移ってしまった。そして、凛々しい姿できれいに弓を引き、見事に一発で中心近くを射抜いてみせた。ほんと、嫌味なやつ。自分だって好きな子と付き合えてないくせに。
 的はほとんどまんまるで、月と同じ形をしていた。



 先輩と次にいつ顔を合わせられるかなと思って考えたけれど、一番ありそうな生徒会室じゃ、気まずい。他にも人がいるんだから。先輩をわざわざ呼び出すのもどうかと思うし、結局、あたしは次の日も放課後のチャペルへ足を運んだ。
 昨日と同じ時間だった。暮れていく夕焼け空が、胸に痛い。
 晩夏の太陽は強烈だと思う。頭が、搾られるように痛くなった。感情がすごく昂ぶっている。先輩にまた会って、あたしはどうしたいのかな。昨日の続き? それより、きちんと好きだって伝えたほうがいいのかな。
 あたしは恐いと思いながらも、長尾先輩とのことがいくらか進展するのに期待していて、それよりはるかに……失望しているらしかった。
 孝介が言ってることに流されるわけじゃないけれど、昨日の先輩の態度は誠実さに欠けてると思う。あたしが見ていたのは、ああいう先輩ではなかった。あんなことするなんて、あんなこと言うなんて、思ってなかった。
 いつも優しくて包容力があって、親しみやすくて、スポーツマンで、頭もけっこうよくて、まるでお兄さんのような先輩が好きだった。
 よくよく考えたら、あたしが考えているような理想の人間なんて、いるんだろうか?
 本当にむかつくけど、孝介は間違ったことを言ってない。
 チャペルには今日もだれもいない。足を踏み入れると、首筋がちりっと痒くなった。静かで、涼しい。
 あたしはステンドグラスの天使様を見た。
 金髪に青い目、白い裳裾の衣と純白の雙翼で、手に弓と矢を握っている。昨日見たときほど、作り物っぽくないと感じた。少なくとも、あたしは真摯に祈りたいと思う。そうしたら、いまにも神様が魂をふきこみ、はばたきそうだ。
 ここで祈ったら、天使様は現れて、導いてくれるんだろうか? それとも、愛と罪の告白をしたほうが、いいんだろうか?
 けど、愛の告白ならできるけど、罪の告白なんてなにをしたらいいのかわからない。もちろん、いいことだけして生きてるわけじゃないけど、罪っていうのはもっと重たいものだと思うから。
 罪ってなんのことなんだろう。神村先輩は、どんな罪の告白をしたんだろう。
 がたん、と音をたてて扉が開いた。開けたのは、予想どおり、長尾先輩だった。先輩はにっこりと笑う。
「やっぱり来たね」
 先輩、あたしがここに来ると思ってたのかな。昨日の続きのために? あたしは、なにをしにここに来たのかわからなくなっていた。先輩に会いたかった。でも、天使様にも祈りたかった。
「先輩も、来たんですね」
 そう応えると、先輩はうんとうなずいた。
「今日は、高宮は? いないのか」
 その台詞に、あたしはなんとなく身構えた。どういう意味だろう? 今日は、邪魔する孝介はいないっていう意味なのか、それとも別の意味?
 先輩は、あたしのことをどういうふうに認識してるんだろう? 先輩のことを好きだと知っているのか、それとも孝介と仲がいいと勘違いしてたりするんだろうか? 昨日の帰り際のセリフでは、すっかり誤解してたみたいだけど。
「昨日はごめんね。今日はなにをしに来ていたの?」
 先輩に会うため、とはさすがに言えない。先輩は、優しく笑った。
「天使にお祈り、した?」
 愛と罪の告白のことだよね。あたしは首を振った。
「いいえ。まだです」
「やってみたら? 本当かもしれない。神村に確かめてみたら、マジだったから」
 先輩は、どういうつもりでいるんだろう。あたしのこと、からかっているのかな。そんな人じゃないと思いたいけど、今日も軽くあしらわれている気もする。
 好きだ、ときちんと伝えても、ちゃんととりあってくれるのか少し不安だった。
 いままでは、自分に告白する勇気がないってことでためらってたんだけど、今日は違う。あたしは本当に先輩が好きなのかな? 昨日みたいなことを言われて、それでも好きなのかな?
 先輩の、かすかに触れた唇を思い出す。そういえば、ひんやりしていた。想像してたのとは、違った。
 やっぱり、なにも言わないほうがいいのかな。
 ぜんぶ冗談だってことにしておいたほうが、いいのかな。
「もし乾に好きな人がいるんだったら、祈ってみるといいよ。天使は、きっと乾の願いなら聞き届けてくれる」
 先輩は、そう言った。また首筋がチリッとする。
 先輩のその言葉は、とてもまじめだった。昨日の軽い調子が信じられないくらい。とても優しくて、そして、少しだけ寂しそうだった。……天使様に祈るより、いまあたしも真摯に、先輩に言うべきだという気がした。先輩が、好きだって。
 そうしたら、天使様だって聞き届けてくれるに違いない。
 意を決すると、あたしは先輩を見つめた。
「あたし……昨日からすごく考えてたんです。昨日の先輩のこと、すごくショックだったから。でも、ショック受けている自分はおかしいなっていうのも、思ってて。あたしは先輩に、自分の勝手な理想を押しつけてるだけなんじゃないかなって。それだったら、あたしも先輩のこと責めたり出来ないと思ったんです。先輩のこと、変だって思うのはおかしいって」
 そう言って長尾先輩を見ると、彼は首をしめられたような苦しげな表情をしていた。
 一瞬、こんなこと言わなきゃよかったって思った。先輩のことを責めているようにも聞こえる。
 けれどもう止められなかった。いま引きさがったら、それこそ後悔する。言っても後悔するだろうけど、先輩の目を見たらもう止まらなくなった。
 煮えたぎる水のように、気持ちだけが先走っていった。止めなきゃ、とも思うし、頭のどこかでだれかが「それは疑いなのか?」ってささやくのが聞こえた気がしたけど、言い始めてしまったのに、ここでやめられない。
 先輩の目が、あたしをじっと見つめてる。
「先輩、あたしは先輩が好きなんです。わかっていたんでしょう?」
 そのとき。
 ステンドグラスから、外のまばゆい閃光が射しこんで来た。チャペルは一瞬、すべてがまっしろに光ったようにも見えた。……錯覚かもしれないけれど。
 あたしはその眩しさに、思わず悲鳴を上げた。光はまるで紫外線のきつすぎる真昼の陽光そのもののように、目を射抜く。しばらくは視力が戻らず、あたしはまばたきをくりかえした。目が痛い。
 どこからの光だったんだろう。もう、夕暮れなのに。
 あたしは天使様のことを思い出す。
 まさかこれは、天使様の光なんだろうか。本当だったのかな、チャペルの天使様の、愛と罪の告白の話……
 じゃあ、天使様が出現するという話は? 伝道をもたらすという話は?
 よくわからない。
 あたしは、白い光のなかに先輩を見失っていた。あわてて先輩を探す。どこだろう。まだ眼がちかちかして、よく見えない。
「乾?」
 先輩のほうから、あたしを呼んで肩をつかんで来た。いままで気配がなにもなかったと思っていたところに先輩がいて、あたしは必要以上に怯えて声を上げた。
「きゃっ」
「そんなに驚くなよ」
「あ、ううん、いえ……いまの、なんですか?」
「さあね」
 それからあたしたちは、光源を求めてチャペルの外を見て回った。けれどなにも見つからず、またチャペルの中に戻った。
「頭がくらくらする。……すごく、しんどい、」
 先輩はそう言うと椅子に座った。建物の中は、また夕闇の色に染まっているし、ステンドグラスの天使様も動きだしてはいない。天使様かも、と思ったのも七不思議に毒されちゃっていただけで、偶然なにかが反射して光っただけだったんだろうか。それにしては、すごくまぶしかったけど。
「なんだったんだろう、あれ」
 先輩はそう言う。あたしはちっともわからなくて、首を振った。
「さあ……」
「天使だったのかもな、君は、恋と罪の告白をしたから」
 そうだった、妙な光で忘れていたけれど、先輩に好きだと言ったんだった。あたしはいまさらのように照れると、先輩のいくつか前の椅子に座った。後ろから聞こえてくる彼の声は、落ち着いて澄んでいた。
「乙女、……ありがとう。そう、君の気持は前々から知ってはいたよ。昨日はからかってごめん。あんなところ、人に見られるとは思ってなかったから。しかも、君と仲のいい高宮だったしね。変なことを言っちゃった。
 ありがとう。俺も君が好きだよ」
 すごく嬉しいのに、急に胸がつかえて、あたしはその言葉に答えることが出来なかった。いまさら、ためらうことがどこにあるというんだろう? 振り返ったけど、立ちあがれない。鼓動が高鳴って、苦しい。
 長尾先輩はやおら眉を歪めてここは空気が悪いと言った。
 そして立ちあがると、沈黙したままのあたしを置いて、出ていってしまった。開かれた扉から、潮の匂いが忍びこんで来る。
 うちの学校が海に近いとはいえ、こんなに濃い潮の香りがするのは少しおかしい。今日は風が強いわけでもないのに。
 あたしはぽかんとして、先輩の出て行った扉を見ていた。……置いてっちゃうって、ひどくない? これじゃあ昨日とあまり変わりない。先輩はあんなに優しい声で好きだと言ってくれたけど。
 急にどうしたんだろう。追いかけたほうがいいのかな。
 あたしはチャペルを出ていこうとして、はたと床に残る濡れた足跡に気がついた。先輩の? まさか、濡れるような水はないし、かといってあたしたち以外にはだれもいなかったよね? じゃあどうしてこんなところに?
 さっきの光と、関係でもあるんだろうか。
 磯の香りは、その足跡から香っている。これは、だれの足跡なんだろう。
 どうにもわからなくて、とにかくあたしも出ようと思った。
 チャペルを出るとすぐに、外の熱気に包まれる。気持ちが落ち着かないのは、この熱い空気のせいなんだろうか?
 夕陽に、影が長い。
 長尾先輩、どこに行ったんだろう。

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