第一章 3rd. 儀式
《das bekkantnisritual der suende und strafen》

 消灯時間が過ぎてから、アレンはボストン・バックを抱えて部屋を忍び出た。制服の上にマフラーを巻いていたが、それだけの薄着で出て来たことを後悔するような寒さだった。だが、外套を取りに戻るのは気が引けた。折角、だれにも気づかれずに部屋を出て来られたのだ。もう一度試してそううまく行くかどうかは、定かではない。寮監の部屋は遠かったから、あまり生徒たちの出入りに気がつかないのだが、隣の部屋の住人のほうが問題だ。この時間、まだ寝ついていない者は多いから、迂闊に戸の開け閉めもできない。殊に、城のドアはどれも重く、軋みがひどい。
 石造りの屋内は冷えるが外気は意外に暖かい、ということを少年は経験から熟知していたので、踏みとどまった。
 あの本を手に入れてから、既に二週間が経っている。行方不明になったテオフラスト教授の日記と古い魔術書をめくりめくり、かつてない熱心さで古いドイツ語で書かれたテクストを読み解いた。テオフラストの解説があっても、儀式の仕方がわかったのは三日前で、必要なものを揃えることができたのは昨日だった。
 テオフラスト教授は、本を手に入れてから読み解くのに二ヶ月もかけている。アレンが読んだのは儀式についての部分だけだし、テオフラスト教授の解説が微に入り細に入っていたのでそれだけ早く済んだのだろう。
 折しも、天には満月が輝いている。ヴァルプルギスにはいい夜だった。空の澄んだ大気に、月の光が太陽のように高慢に散らばっている。アレンの吐いた白い息を、そうして照らす。


 ――四月二十九日。いよいよ明日の夜、悪魔を喚びだす儀式をすることに決めた。明日は満月、そしてヴァルプルギスの夜だ。これ以上にふさわしい日があるだろうか。私の胸は昏く燃えている。だというのに反面、不安もある。なにも悪魔への恐れではない。なにもなかったそのとき、私は糸が切れてしまうのではないかと思って、それが怖いのだ。いまやこれが私の生きる糧、私の生きるよすがだ。


 アレンは脳裏に、テオフラストが儀式に臨んだときのあの日記を思い返していた。彼が悪魔の召喚に挑んだのは四月三十日、本当のヴァルプルギスだった。魔女と悪魔が踊り狂う呪われた日だ。
 教授がなにを悪魔に望もうとしていたのかは、日記に書いていなかった。たぶん亡くなった奥様とまみえることではないか、とアレンは思っていた。それゆえに教授は本の解読にも、儀式にも没頭したのだ。
 もちろん、アレンはこれから始める儀式になにかを賭けていたわけではない。少女たちが好む恋のまじないと同じくらいにしか思ってはいなかった。
 それでも、だれにも言えない秘密を抱えて塔へとひた走った。まだ火をつけていないランプがからからと鳴る。走っているうちに夜気は気にならなくなり、マフラーを巻いた首元すら汗ばんで来る。〈シャロットの塔〉に辿り着いたアレンは、一気に階段を登って小部屋へとついた。かなぐり捨てるようにそのマフラーを椅子にかけ、テーブルの上に鞄を置く。ランプには火を入れて、離れた椅子の上に置いた。
 まず卓を部屋の中央に据えると、鞄の中から色々なものを取り出し始める。
 銀の杯、銀の皿、そして銀のナイフ。
 それぞれくるんであった布を外して並べる。皿は机の中央に。杯はアレンの左手に、ナイフは右手だ。学園の食堂からくすねて来たものだが、れっきとした純銀で、手入れは丁寧にされているようだ。この乏しい明かりの下でもきれいに光っている。
 それらを並べると、次は一枚の白い布を広げる。ハンカチ程度の白い布には、黒いインクでなにかが書かれていた。ルント六芒星ヘクサグラムの重なり合った図形に、ラテン語が記されている。《L.G.A.》から書き写した魔法陣だった。皿の手前に丁寧に広げ、その上に一枚の紙切れを載せる。アレンの願いをしたためた紙だ。
 次に燭台をふたつ取り出し、白い蝋燭をそれぞれにはめる。ふたつの燭台は、皿のむこうに左右にわけて置いた。マッチを片方の足元に置いておく。そして最後に、ポリエチレンの容器タッパードーゼから、緑の葉を銀の皿の上に置いた。赤い斑点のついた緑色の葉は、ヘリオトロープだ。
(よし。……)
 いよいよ儀式を始めよう、として、アレンははたと思いつき、塔の窓を開けた。満ちた月光が机の上に陰影を刻んだ。このほうがずっと儀式らしくなる。
「聖ラザロと聖マルコに加護を願いたてまつる」
 守護聖人への呼びかけから始め、アレンは魔法の呪文を呟きながら、マッチを擦って燭台に灯した。火が灯ると部屋の中は橙の炎の色をそこはかとなく帯び、蝋が溶ける匂いが鼻をつく。アレンは、呪文を続けた。
「御嶽の魂よ、千年の牢獄に結ばれた者よ、
 真摯なる者の声を聞き給え」
 右手の燭台を握ると、その火を銀皿の葉に近づけた。葉はくすぶりながら白い煙を上げ、炎に包まれてゆく。すると、蝋のにおいをかき消すような不思議なにおいが立ちこめ始めた。
 燃えているヘリオトロープは学書棟に近い草叢に群生している――かつて、錬金術師が植えたのかもしれない。それが野生化していまもこの学園に残っていた(もちろんそれを見つけたのはテオフラスト教授だった)。
 アレンは右手でナイフを握ると、反対の手首を薄く切り裂いた。裂け目からこぼれるように血の水玉が銀の杯へと、落ちる。
 いくらかの血がたまると、今度は血の止まらない左手で杯を手にした。
「我は冀う、我が願いを聞き、叶えたまえ」
 そう繰り返しながら、杯の血を魔法陣に注いだ。赤い血がどろりとこぼれて、願いを書いた紙と、白い布に拡がっていく。
「我は冀う、我が願いを聞き、叶えたまえ」
 そう言ってアレンは、自分の血に濡れた紙を、炎を上げるヘリオトロープにくべた。変形して灰へと変わっていく願い、……
 だが、その願いを少年は口にしなかった。それを口にするのはたった一人のときであっても、孤独な秘められた儀式の中であっても、禁忌であると感じていた。
 普段は思いの中にすら、浮かばせてはならないと戒めている願いだ。
 それでも、こんな馬鹿げた真似に及ぶくらいには、彼は真摯だった。
「我は冀う、我が願いを聞き、叶えたまえ」
 最後にそう口にした。――その瞬間だ。火にくるまり黒く変色して燃え尽きようとするヘリオトロープが、一瞬、目を見張るほどの激しさで炎を上げた。
 アレンは顔に迫り来るような炎の熱さを感じたが、それは本当に瞬きするほどの刹那だった。
(なん、だよ……)
 鼓動が激しく跳ねだした。アレンは塔の小部屋の中を見回したが、他になにもなかった。
 生臭い風が吹いた。冷たく寒い夜なのに、開いた窓からはいつもと異なる風が吹いていた気がした。
「なんてね……」
 アレンは悲しげな目で儀式の跡を見凝め、手早く腕の傷を止血すると荷物をかたづけた。血に汚れた布は用意して来たビニール袋に入れ、雑巾で机の上をきれいにふき取る。すぐに、なにもなかったようにきれいになった。
 なにかがあった痕跡が残るようでは、困るのだ。ここへ来るのはアレンとレナルトだけだったが、だからこそだれにも知られてはならなかった。
(バカだな、俺も。……こんなことに夢中になって)
 この儀式で彼の願いが叶うとは思っていない。なにもなくてもよかった。ただなにかがしたかったのだ、彼の願いのために。苦笑いして、アレンは鞄とランプを手にした。
 アレンが異変に気がついたのは、そのときだった。


 真夜中の学園に、やおら人の気配が満ち溢れた。昼間の休憩時間というのであればわからなくもないのだが、いまはだれ一人、出歩いているはずがない夜魔の時間帯だ。しかも、普段は人があまりいないこの北塔のまわりにたくさんの人間がいる気配がした。
(こんな時間になんだって……昼間だって遅くだって、ここにこんなに人が集まるはずはない!)
 アレンは塔の上で身をかがめ、下をうかがった。
 ランプの火は既に最小限に絞っている。懐中電灯を使わずランプを提げて来たのは、こうした場合に火を細くするためだった。まさか、こんな大勢の人間に出くわすとは思っていなかったが、見回りの教師がいるのは想定していた。ランプの小さな明かりはぼんやりとしていて、下から見あげたときにはほとんど気がつかれないはずだ。しかも、塔下は急に明るくなり、人々が手に手に明かりを携えているのがわかる。それだけでなく、城壁に松明が掲げられてあたりを照らしていた。ランプの明かりは絞らなくてもわからないかもしれなかった。塔の窓まで、燃えるやにのにおいが漂って来る。
 生徒たちがなにかイヴェントを企んでいるというなら、アレンの耳に入らないはずがない。それに、覗けば人影は少年たちではなく、大人もずいぶんいるようだ。集まった人々の数はどれくらいなのだろうか、もう塔の下の堂内に入っていった人数がわからないけれど、ざわめきや途切れることなくやって来る人々の数を見れば――ゲルトルートの教職員の数よりも多そうに見える。
 これだけの数の人間が一体どこから現れたというのだ、なんのために現れたというのだろう。
 さすがに、アレンといえど面白がっていられる光景ではなかった。しかも人々は、目深な黒い外套を頭からかぶり、素性さえわからないようにしているのだ。先刻まで自分が黒魔術の振りなどしていたせいもあって、心底からぞっとしていた。
 空気は、とつぜん現れた人々のせいなのか急に温かくなった。人いきれの温かさだった。
 制服のポケットに入れた時計を取り出し、見ると時間は十二時をまわったばかりだ。儀式を終えて部屋に帰るつもりでいたが、いま降りると彼らに出くわしてしまうだろう。それだけは、避けたかった。
 別に、夜歩きを咎められるのを恐れたのではないし、この塔で冒した秘密の儀式を暴かれることが怖かったわけでもない。相手が学校の関係者でもないのにそんなことを恐れる必要はなかった。
 ただ言い知れぬ恐怖が、彼らから感じられたのだ。アレンは塔の上で一晩を過ごす腹積もりで、時計をまたしまいこむと様子をうかがい続けた。ランプの火も消した。
 やがてまた人通りはぱったりと途絶え、塔の下で集まってなにやら始めたらしいのがわかった。だれか、一人が口上を述べているらしい。他にはなにも聞こえない。アレンはおのずとそのたった一つの声に耳を澄ました。


 ……今宵我らはまた集うた、今宵また我らを喚ぶ者があるので……


 いささか儀古典調の芝居がかった口上だった。どこかの劇団に、練習場所か公演場所としてこの塔を貸したのかもしれない。それにしては非常識な時間帯だったけれど、ありえなくはなかった。列車ドイチュ・バーンで一時間ほどのところにあるテュービンゲン大学は学生の演劇活動も盛んだし、そこの演劇サークルが出張して来たのだろう。
(……なんだ、大したことじゃないじゃないか。生徒に報せるとまた騒ぎが大きくなるから、先生たちも黙っていたのかな)
 そうやって息をつき、アレンは自分を安心させようとした。
 そうでなければあまりにも禍々しかった。黒づくめの人々はアレンの悪戯心がなした儀式などと比較にならない雰囲気を放っている。
 恐怖と緊張で、口の中がからからだったけれど、ともかくここで一晩を過ごしてしまえばいい話なので、アレンはもう考えず、椅子にもたれて目を閉じた。
 切った傷口が熱く、包帯の下でうずいていた。


 ……今宵我らはまた集うた、今宵また我らに冀う者があるので……


 もう一度その声が聞こえて来たとき、アレンははっとして、声にまた意識を傾けた。
(この声、)
 アレンは塔から下を見おろした。堂内は人影があることくらいしかわからず、口上を述べる人物を認めることはできないが、その声を他の人間と取り違えるとも思えない。
(レナルトの声だ。……レナルト?)
 低すぎず深い声、アレンの親友である彼の声だ。折角、学生の演劇サークルと落ちつきかけた考えが、また不可思議に巡りだす。そんなものにレナルトが加わっているはずがない、ではなんだというのか。
 結局、好奇心が勝った。人々の群れは不気味で仕方なかったけれど、レナルトのことを確かめてみたかったのだ。

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