第一章 5th. 薄暮
《das zwielicht》

 レナルトになにがあったのか、アレンにはわからなかった。あの真夜中の塔でのふるまいが本当で、ずっとそれを隠して来たのだというのはまずありえない。なにかがあったとすれば、原因はアレンのあの儀式だ。アルンハイムと名乗りアレンを辱めたのは、そのせいだった。
 知らず知らずのうちに、アレンは本当に悪魔を喚びだしていたのだろう。あの夜に出会ったどれが悪魔だったのかはわからない。あの白い少女が悪魔なのかもしれなかった。
 レナルトになにかを問いたかったが、そのために近づくことすら躊躇われた。レナルトが悪いのではないと知りつつもなお、恐怖が、アレンを支配していた。
 次の夜も次の夜も、アレンは自分の部屋の扉に鍵をかけた。部屋の片隅でひざを抱え、なにも起こらないようにと祈り続けた。十字架を両手に握りしめて神様の名を呟き、夜の訪れに怯えた。
 それでも、毎夜、気がつくとアレンは魔法陣の上にいるのだった。
 絶対にあの塔へは足を運ばない、とそう思って扉に鍵をかける。早い時間から自分の部屋に引きこもり、震え続けた。だれもアレンが部屋に閉じこもる意味を知らなかった。いままでなにもかもを話して来たレナルトにすら、言うことはできなかった。そのレナルトこそが元凶なのだ。アレンの過ちがレナルトを変えてしまったせいで、なにも信じられるものがなかった。十字架さえ無力なのに、祈りかけるものを知らなかった。
 やがて扉にかける鍵の数だけが増えていったが、夜毎の恐怖に変化はなかった。祈りと同様になんの役にも立たないのだ。
 夜になってみんなが寝静まると、どこからともなく声が聞こえて来る。
 ――イグニシウス。
 レナルトの声が、耳に入る。
 行かないと呟き、アレンはうずくまってすべてを拒否した。そうしていると、やがて声がだんだんと近づいて来るのだった。
 ――イグニシウス。
「やめろ、俺を喚ぶなー!」
 そしてドアを叩く音が聞こえるのだった。生徒でも寮監でもない、それはレナルトがドアを叩く音だ。
「おいで、イグニシウス」
 そうして気がつくと、暗い廊下を抜け北塔への石畳を歩いて、あの魔法陣の上に立っている。
 意識はあるのに、体の自由が利かなかった。自分のものではないように勝手に動く体を、とどめる術を知らなかった。ままならないところは夢の中とかわりないのに、肉体が感じるものだけはねつく、生々しい。
 もどかしげに首もとのタイを外して自らの手でボタンを引きちぎりながらシャツをはだけさせる。昨晩の情事の痕も消えない体で、居並ぶ人々を煽るように、アレンは脱いでゆくのだった。少年のしなやかな筋肉に覆われた体が少しずつあらわになり、退廃のにおいを振りまきながらヘリオトロープの煙の中で腕を震わす。恐怖する心は、しかしそのストリップショウの間に麻痺し、酔い、どこからあやつられてどこからそうでないのかもうわからなくなってしまうのだった。
 レナルトは毎夜、嬉しそうに冷酷な笑顔でそのアレンを組み敷き、貫き、悶えさせる。やがて飽きると、多勢の中にアレンを放りだした。今度は、アレンの悲鳴を娯しむためにだ。
 拒むことも、逃げだすこともできなかった。少年にできたのは部屋の片隅で震え続けること、そればかりだった。
 いつまでこの仕打ちが続くのか、アレンにはわからなかった。どうにかしてレナルトを元に戻さないと、いつか気が狂うだろう。アレンはかすかな手がかりを求めてテオフラストの遺した日記を読みあさった。いままでは読み飛ばしていた教授の失踪間際の頃ばかりを、何度も読み返した。ただ彼が錯乱しているのだとばかり思って気にも留めなかった文字と文字のあいだを、アレンは食い入るようにして追った。
 その頃の日記は文字も乱れ、インクもにじみ、時折読むことすらままならないページが続いている。


 ――五月七日。いまにして思えば、なぜあの本だけがあのときに目に入ったのか。興味をそそるものならもっとたくさんあったはずだ。まるで私はあそこにあの本があることを知っていたかのように手にしたではないか。それとも知っていたのか? どこかであの本のことを聞いたのだろうか。なにかに書いてあったのだろうか。そんなはずはない。それならこの日記に書きとめてあるだろう。自分で読み直せばそれを見つけるだろうか? 私の頭はとうにおかしいのか? 悪魔のことも、エレオノーラのこともなにもかも私の妄想だといいのだが。それともあの本との出会い、それすらもあの悪魔の思し召しだというのか。私は自分が選んだのか、それともあの悪魔がすべて差配したのか! いままた、あそこへ行こうとは思わない。いかなる財宝が残されているとしても、行こうとは思わない。
 ――五月九日。だれか私の目の前であの本を開いてくれないだろうか。そして、中にはなにひとつ文字が書かれていないと言ってくれないだろうか。わかっている、そんなことはありえない。これは悪魔の書だ。書かれているすべては人間の涙と血で出来たインクを使っている。私の涙と血もその一滴だ。今日も悪魔めが笑っている。笑いながら私の目の前で服を脱ぐ。エレオノーラ、月の光のように美しい君の姿だ。そして私の目の前でその腹が満月のように膨れあがり、人間の手の形や足の形がエレオノーラ、君のくすみのない肌の下で暴れているのが見える。そうして今日もまた君の腹を食いやぶって血まみれのにんげんが出て来るのだ。それは私の子ではない。悪魔そのものだ。君は笑って、はみだして引きずる腸や千切れた子宮を気にも留めずに悪魔を私に差しだすのだ。「あなた、この子に名前をつけて」となんて幸せそうな笑顔で言うのだろう。悪魔め。エレオノーラは今日も私の血を悪魔の赤ん坊に飲ませている。
 ――五月十日。私はこの本をあるべき場所、あるべきところに返そう。それも早いうちに、どうか、私がまだ生きていられるうちに。それでこの怪異が終わるとは、私には思えない。それでも、少しでもこの本を遠ざけていたいのだ。私は正気か? 正気だからエレオノーラが見えるのか? エレオノーラは私の前で毎日死ぬ。君が本当に死んだのはいつだったか。君は本当に死んだのか? エレオノーラ。エレオノーラエレオノーラエレオノーラ、エレオノーラ!


 教授の末期の日記を読みくだすことは、なにもなかった頃のアレンにすら気の重いものだった。ましてやいま、自分もその悪魔の手に捕らわれている。テオフラスト教授の身に降りかかっただろう狂気と恐怖を、彼は生々しく想像することができた。とても正気で読めるものではない。精神は完全に打ちのめされ、悪魔の掌から逃げだすことなど不可能だという気がした。
(そもそも、教授はどうしていなくなったというんだ。どこかへ行ったのか? 悪魔に殺されたのなら、教授の死体があったっていいはずだ。でも、ない。そんなものは見つかってない。……教授はどこへ行ったんだ?)
 もしかすると、悪魔から逃れるために本を錬金術師の部屋に戻し、そのまますべてを捨ててどこかへ旅立ったのかもしれない。そうだとすれば、失踪したことも部屋が手つかずで残されたことも、納得がいくような気がした。
 アレンとレナルトに地獄の扉を開いた悪魔の書を手放すべきだ、とアレンも悟った。戻そうと思うといてもたってもいられず、少年はすぐに本と鍵を手に自室を出た。校内は夕暮れに翳り始めており、生徒たちがちらほらと学書棟やグラウンドから帰って来ているのにすれ違う。
 夕陽の逆光で、そのすべての顔が闇に包まれてだれともわからなかった。レナルトに会わないように、とアレンは祈りながら、うつむいて廊下を抜け、庭を走り抜けた。彼が急いでいるようなのを皆は見てとっているのか、だれにも声はかけられなかった。
 学書棟の地下に降り、人が途切れるのを待って羽目板をはずす。埃くさい裏側の廊下には、学書棟から射しこむ人工のかすかな光しか届かない。そこには、以前にアレンが侵入した形跡以外になにもなかった。むこう側にくぐり抜けて立ちあがると、すぐ先も見えないくらいだった。
(慌てたな、懐中電灯もなにも持って来なかった……)
 それでも、明かりを取りに戻る気はしない。ここまで来たのに戻っては、時機を逸するだろうし、だれかに呼び止められたりするかもしれない。あるいはもっと悪ければ、レナルト自身に出くわすかもしれなかった。
 数歩進むと、廊下は完全な暗闇に包まれた。ここに本を放りだしてもいいくらいだったが、それでは駄目だという気がしている。それでは、あの悪魔のことを封じこめることにならないだろう。記憶を頼りに、あの部屋まで進んだ。
(いま、ここにレナルトがあらわれたら、)
 いやな考えが浮かんだ。レナルトは、ためらいもなくアレンを蹂躙するだろう。その恐怖に苛まれてアレンは足を竦める。気が狂っているかもしれないと書いたテオフラスト教授の気持ちは痛いほどわかった。アレンも既に、狂い始めている。
 部屋までたどりついて鍵穴に鍵をはめる。はじめて開いたとき以上にためらった。この先にまたなにかあってもおかしくなかった。
 それでも開けなければいけなかった。軋ませながら扉を開けたが、廊下となにも変わらない闇の中だ。アレンは、部屋に足を踏み入れる。数歩あるけば、この本を置いてあった机にぶつかるはずだ。手をさしのべ、闇の中を一歩ずつ進む。目を閉じているのと変わらない暗闇で、アレンは妄想を止めることができなかった。たとえばこのさしのべた手をだれかの暖かい手が掴んだら?(そのだれかは言うまでもなく、一人しかいない。レナルトだ。冷たいレナルトの掌の形や長くて整った指、その感触とか指の関節の窪みまで、アレンは克明に思い描くことができた。それはありえない精密さだ) ――たとえば背後の戸が閉まったら? イグニシウスと呼ぶ声が耳元から聞こえて来たら?
 しかし、あっけなくアレンの手は木のざらついた机にふれた。安堵で汗が吹きでる。
 本を慎重に置き、ゆっくりと部屋を後にした。扉に鍵をかけ、階段を登りながら、閲覧室から漏れて来るかすかな光を目指していると涙がにじんだ。出て、板を元通りにしたところで、アレンは立ちあがることもできず、吐息をついた。
 これでなにもかもが終わる、ということはないだろう。レナルトに取り憑いた悪魔が、これしきのことでいなくなるはずはなかった。テオフラスト教授のようにこの学園から逃げだすわけにはいかないのは、レナルトが残されたままになるからだ。
(あの本、むしろ燃やしてしまったほうがよかったのかも)
 そう思ったが、取りにいく気は毛頭なかった。燃やしてしまうことを置きに行く前に気がつかなかったことに、アレンは自分がどれほど追いつめられていたかを知った。いまは信じられないほど心が軽い。少なくともなにかが変わるはずだと、アレンは信じた。
 学書棟から外に出ると、陽は沈みかけて夜が近づきつつあった。
(もう、星が出始めてる、)
 つい昨日までは、夕食すら摂らずに部屋で震えていた時間だ。レナルトが悪魔となってアレンを呼びだすのはもっと遅い時間なのだが、夕暮の時間は既に悪魔のものだと、直感が知らせるのだった。
 薄暮の空を見凝めてアレンが佇んでいたのはわずかな間だった。気がつくと中庭の反対側に、クレイや友人たちと立つ、背の高い少年の姿がアレンの目に入った。レナルトは居並ぶ友人たちより背が高く、その金髪はあまりにもきれいで目立つのだ。
 見えてすぐに、体が跳ねるように逆をむいた。あとはただ、恐怖に憑かれて走りだすだけだった。
「アレン、待てよ!」
 声が聞こえたが、待つわけにはいかなかった。レナルトから逃れようと、アレンは闇雲に走り続けた。学園を飛びだして、森の中に駆けこむ。明かりが乏しい木々の間をぬって、逃げた。
「どこに行くんだ、イグニシウス?」
 追いつかれない迅さで逃げて来たと思ったのに、息を整えようと少し足を緩めた瞬間に腕を掴んだのは冷たいレナルトの手だった。いつの間に忍び寄ったのだろう、いつの間に腕を取ったのだろう。その掌は、以前に腕を掴まれた白い少女の手に似ていた。
 レナルトは息が乱れてもいない。アレンは絶え絶えの息の中で、彼を拒否した。
「俺に、触るな」
「そう言うな。こんなに怯えているかわいい子を見たら、抱きしめてやりたくなるのに」
 言葉だけならアレンは喜んだかもしれない。
 けれどレナルトの瞳は蛇よりも冷たく、唇は少しも笑っていない。その抱きしめるという言葉がどんな残酷なことを意味しているのか、知りたいとも思わなかった。
「あの本を返したのか? 無駄なことだ」
「放せ!」
「放さないよ、かわいいイグニシウス」
 そう呼んでレナルトは、怯えて縮こまるアレンを引き寄せた。頤に手を添えてくちづける。少年は恐怖から目をそむけるように、きつくまぶたを閉じた。
 レナルトの唇は夜と変わらない冷ややかさだ。それから、熱い舌がその唇を割って這入って来た。
「ん、ふぅ」
 押し殺した拒否の言葉が空気となって漏れ、その隙にレナルトはアレンのもっと奥へと侵入を果たす。もとより、息が上がっていては長く堪えることもできなかっただろう。濃厚なくちづけに、アレンはもう慣れてしまっていた。そして立っていられないようになって、背後の木へと体を預ける。レナルトに抱きつくのだけはどうしても嫌だったのだ。腕が自然とレナルトの肩を掴もうとしているのを必死で抑えなければいけなかった。
 森は樹影が重なり合い、黄昏の影と影が深い闇を呼んでいた。もう夜がやって来る。
 レナルトをまくためにあまり人の来ない森のほうまで逃げて来たのだが、それが却って追いついたレナルトには都合のよい状況になってしまっていた。人は滅多に来ないはずだ、だが来ないとも限らない黄昏の時間だった。
 レナルトの指は執拗にアレンの耳を、額を、顎の線を、そして首筋をなでる。たったそれだけだったが、体が熱を帯びるのをアレンは感じていた。
(ここで犯すつもりなのかよ……?)
 多少は怯えていたとはいえ、アレンはレナルトをはねのけて逃げだすことができずにいた。ここはあの逆らい得ない魔法の塔ではなく、真夜中の悪魔の時間でもない。本を返したせいからか、少なくとも、少年は平常ほどの恐怖を感じてはいなかった。抗えないわけではなかったのに、アレンは目をつぶって耐え続けた。
「アレン!」
 不意打ちに声が聞こえた。間近に、大きくアレンの名を叫ぶ声が聞こえた。――聞き憶えのある声だ、アレンを探しに来たのだろう。
 目を開いてレナルトの肩越しに、アレンは森の木立を見た。声が聞こえてからそうして目を開き、視界に友人の姿を見凝めるのに長い時間がかかったわけではない。ほんの一瞬のことだっただろう。
 それでもアレンの頭の中は混乱した。いくつもの想いと情報が入り乱れて散らばった。
 こんなところを見られちゃいけないと思い、レナルトから逃げださないければと思い、これでレナルトから逃れられるという安堵と見られてはおしまいだという不安が心を裂いた。そしてなによりアレンを混乱させたのは目に映った友人の姿だった。
(黄昏で見間違えたんだ、)
 そう思おうとした。
 レナルトは声が聞こえると風よりも迅く身を翻し、笑いを残して走っていった。
 だから、彼は……見なかっただろう、逃げだしたレナルトとアレンが唇を合わせていたということは。それともわかるだろうか、アレンの唇の端に零れた唾液を見たりして。
「いまの、だれだ? ……悪いな、なにか邪魔したか?」
 アレンの困惑など知らない様子で、後から追って来た少年は言った。
「う、ううん……」
 アレンは口元を袖で拭いつつ、首を振って友人の姿を見た。レナルトは少し怒ったような顔をしてそこに立っている。――さっきまでアレンを辱めていたレナルトと同じ顔だったが、同じ人間ではないのだった。
 なにもわからない、と思う傍らで、アレンはすべてを合点していた。
 あれはアルンハイムだ。彼ははじめから言っていたではないか。あの塔で、彼の名は「アルンハイム」なのだと。レナルトではないのだと。どうしてアルンハイムとレナルトが別人だということに気がつかなかったのだろうか。
(最初からおかしかったじゃないか。レナルトがあんなところにいるはずがない、と思ったのは俺自身だったじゃないか! 真夜中にあんな奴らに囲まれているレナルトが奇妙で、様子を見に塔を降りたんじゃなかったのか! なのにどうしてわからなかったんだろう。なのにどうして、あの悪魔とレナルトを同じものだと思ってしまったのだろう。……)
 それは、よりによって悪魔がレナルトと同じ顔をしていたからだ。知っている人間でも他の人であれば、信じなかったに違いない。レナルトだと信じてしまったのは、アレンが心の片隅であの欲望を抱いていたからなのだ。
 そこにつけこまれたのだ。……なにを言うこともできなかった。
 アレンがレナルトを好きだからこそ、アルンハイムはアレンをレナルトの姿で陵辱したのだ。それゆえにアレンは陵辱の中で、レナルトに犯されることに快感を覚えた。あの熱や昂ぶりのすべては仕組まれたものだったが、それでもアレンは相手がレナルトだったからこそ、受け入れて来たのだ。
(レナルト……!)
 すべては、レナルトと関わりのないところで起きていたことだった。アレンが塔で泣き叫んでいる間、レナルトは自分の部屋で安らかに眠りについていたのだろう。彼を巻きこんでいなかったことに安堵しながら、アレンは胸の奥から叫びたい衝動にかられた。
「それよりアレン」
 レナルトは言った。
「おまえ、この頃俺を避けてるだろう? どういうつもりだ?」
 アレンはただ、首を振った。どう言えばいいのかわからなかった。ずっとレナルトを避けてたことに意味はなかったのだ、ということを。
 すべてを語るにはなにもかもが錯綜していた。そして、アレンにはレナルトに語るわけにはいかない理由があり、そのことについてだけは口を噤まなければならない。この期に及んでこの恋をレナルトに明かして、どうなるというのだろうか。いま口にすれば、彼をも巻きこむことになりかねない。それゆえにアレンは、口を緘して首を振るだけだった。
 木立の間から太陽の最後の光が注ぎこみ、薄い夕暮れがあたりを照らしている。けれどアレンの心は暗い夜の闇の中に沈んで、一筋の光も知らなかった。はるか昔にアルンハイムのあの暗闇の中に、掴まっていたからだ。

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