第二章 1st. 真昼
《das mittag》

 さすがにその朝は、ベッドから起きあがることもできず、アレンは部屋にいた。体が格別に辛かったわけではない。同じような責め苦は何度も味わって来たし、痛みはあったけれど耐えられないわけではなかった。敬愛していた教授によって痛めつけられたといっても、それは昨日までの苦痛を越えるわけではなかった。
 ただようやくわかった事実だけが、アレンを打ちのめした。
 寮の一人部屋には太陽の光が射しこんでいて、まぶしいほどに明るく照らしている。
 太陽の熱が暑い。
 太陽の熱が穢れを焼き滅ぼすなら、アレンの体は塵さえ残らないだろう。悪魔に売ってしまった魂さえも灰と消え、なにも残らないだろう。
(そのほうがましだ。……)
 焼き尽くされて消えてしまいたかった。体に残る痛みもけだるさも、そうなればなにもかもが消えていくだろうから。
 寮の中は、生徒がみな出払ってしまって静かだった。清掃する寮母のたてる音だけが、どこかから響いて来るだけだ。机の上の時計を見ると昼下がりで、いまごろは午後の授業が始まっているだろう。
 けだるさよりも心傷がひどく、食事を摂りに行く気もしない。体は疲労しているのに、まどろむこともできずにその痛みに絶望していた。
 あの陵辱がレナルトのしたことじゃないとう真実がわかったとしても、それは少しも救いにならなかった。アレンの抱いていた想いと、アルンハイムが彼に与えた陵辱と、そしてそれに対するアレンの錯誤と、その三つがないまぜになり、アレンの心は完全に混迷していた。なにもかもを顕かに、確かなものとしてとらえてしまったら、心が壊れてしまう。なにも認めたくなかった。
 アルンハイムは巧妙な謀みをしていたけれど、それ以上にアレンの心が盲いていただけだった。だれを責めることもできない。おそらく、そういうように仕組まれていたのだ。
 思いはぐるぐると回り続けている。すべてについて考えずにはいられないが、長く考えていることもできない。だからこそ、心の内はいっそう混濁していくのだった。
 逃げられないこの呪いは、アレンの願いが叶うまで続き、そして願いが叶ったとき、アレンの魂はアルンハイムのものとなる。悪魔と契約することは魂を売り渡すことだと、おとぎ話の中で聞いたことはあったが、実際にどういうことなのかは少しもわからなかった。最後の審判で復活することのない身になる、それだけなのだろうか? それは――中世の人間ならいざ知らず、現代に生きるアレンにとって現実味のない感覚だった。死んだあといつか復活することのほうがずっと奇妙に思える。
 魂を取られたらテオフラストのように悪魔の言いなりになるのだろう。自らも苦しんでなお、次の犠牲者を苦しめるために働かなければいけないなんて、テオフラストはあの陵辱の裏で、実は苦しんでいるのだろう。彼が組み敷いていたのがアレンであることは、わかっていないかもしれない。あの行為、陵辱そのものが苦しみを与えていることに気がついていないかもしれない。わからないとしても、魂にとっては耐えがたい苦痛のはずだ。
 そしていったいなんだと言うのだ、魂とかいう、目に見えないけど本当にあるような気がする、それは。
 アルンハイムは、アレンの魂を手に入れるために彼の望みを叶える、と告げていた。それだとて、どういう意味なのだろう。この望みを叶えるだなんて、どういった形で叶えるつもりなのだろうか。
 アレンは願いをこう書いたのだ。願わくばこの想いをレナルトに伝え、そして彼に愛されますように、と。
 ほんの小さな願いだ。叶える勇気もないし、傷つくことなしに想いを伝えることすらできないけれど、でも悪魔に魂を渡すほど大きなものではなかったはずだ。恋や愛は、ただ勇気だけが試されるべきものだった。恋する相手は魂ほどに大切ではあるけれど、想いそのものはけっして、そんなものではなかったはずだ! その上、本当に叶うことなど期待もしていなかった願いなのだ!
 こんな馬鹿なことがあるだろうか? アルンハイムによって、なにもかもがすりかえられてしまっていた。レナルトに対する思いの不純さすら、彼の魂の問題という高尚なものにすりかえられ、アレンは逃げ道を失っていた。同い年の少年に対するこんな想いは気の迷いだと言うことを、アレンはもう許されないのだ。なぜなら、この恋は彼の魂と引き換えになるほどに重いものになってしまったのだから。
 レナルトの心に関わることを、アルンハイムはどうやって叶えるというのだろう。レナルトを無理矢理、アレンを愛するように魔法でもかけるのだろうか? けれど、それならこんな時間をかけずとも、簡単に彼を惑わすことができたはずだ。
 にもかかわらず、レナルトはまだ、あの悪魔に少しもかかわっていないのだ。
 この先どうなるのか、アレンにはわからなかった。恐怖すらも麻痺している。だが、これは昼間だからこそだ。夜になれば、悪魔はいくらでもアレンの恐怖を搾りだすために策を講じるだろう。予想もつかないやり方で、アレンの心を苛むだろう。
 もう二度とこの部屋から出たくなかった。だれにも会いたくない。閉じこもっていたテオフラスト教授の気持ちがよくわかった。それは単に恐怖のためではない。――絶望だ。
 そのとき、彼の部屋の扉が軽い音でノックされた。アレンはびくり、と身を震わせる。そして、ドアを見た。

 レナルトが戸を叩いても、しばらく部屋の主の返事はなかった。けれど、アレンは具合が悪いと言って休んだのだから部屋にいるはずだった。寝ているのかもしれない。
 レナルトは、昼食を載せたプレートを手に、アレンの部屋に来ていた。午後の授業はサボタージュして来た。出られるようなら次の時間は出るつもりだったから、制服を着こんだままだったけれど、あまり戻るつもりもなかった。
 もう一度ノックをすると、ためらいがちな声が聞こえて来る。
「……だれ?」
「俺だ、アレン。レナルトだ」
「レナルト……」
 返答の声は予想外にか細く、まるで少女のようだ。
「昼飯、持って来たけど」
「食べたくないんだ」
「なにか少しでも食べたほうがいい。水は?」
「なにも欲しくない……」
 かなり具合は悪そうだった。眠っているわけではないようだから、レナルトは強硬な措置をとることにした。話したいことがあったのだ。
「入るぞ」
 レナルトは寮監から借りて来た鍵で扉を開けた。寝ていた場合に、せめて皿だけでも置いて来ようと思って借りていたのだ。普段は厳しく管理されている鍵だが、レナルトがアレンを心の底から心配していてどうしようもない、という様子を見せたので、意外と簡単に手に入った。寮監に見せたのはいくらか演技過剰だったかと思っていたが、その甲斐はあった。
「大丈夫かアレン。薬は?」
 アレンは、ベッドに腰をかけて呆然と扉のほうを見ている。まさか、鍵が開くとは思わなかったのだろう。
 陽が射して彼の肌を照らしているが、その色は青白く、陽を吸いこんでいくばかりだ。制服ではわからなかったが、こう見るとひどく痩せていた。
 もしかすると、ずいぶん前から具合が悪かったのかもしれない。一週間か十日か、長いことアレンはレナルトを避け続けていたので、その変わりように気がつけなかったのだ。昨日会ったのも夕暮れの中で、こうまでとは思わなかった。まるで長いこと病んだ病人のようで、快活だったアレンの面影はなかった。髪は少し伸びていて、黒い前髪が瞳にかかり、顔に深い蔭を作っている。それが余計にアレンを病んでいるように見せ、レナルトは思わず息を呑んだ。
「具合はどうなんだ?」
 アレンは応えなかった。青い顔を見て、レナルトは黙っていることができなかった。
「そんなに辛いなら、医務室へ行くべきだ。肩を貸すから行くぞ」
「いやだ、行きたくない」
 アレンはかたくなに首を振る。仕方なくレナルトはサイドボードに昼食の乗ったプレートを置いた。
「これ、食べろよ」
「ありがとう……でも、もういいから。構わないでくれ」
「ずいぶん悪そうに見える。どこが辛いんだ?」
 アレンは、食事に手を出すそぶりすら見せなかった。様子を見凝めていたレナルトは、アレンの手が小刻みに震えていることに気がつく。
(……どうしたって言うんだよ、)
 アレンは決してレナルトと目を合わせようとはせず、伏せがちに床の上の影ばかりを見凝めている。
「大丈夫なのか、」
 レナルトは言って、膝の上で震えているアレンの指を、掴んだ。アレンは身を震わし、レナルトはその瞳に明らかな恐怖を見てとって、すぐに手を離した。アレンの指はとても冷たく、まともな温度ではなかった。
「悪い、……俺がなにかしたんだな。ごめん」
 どうやら、アレンはレナルトの訪問を快く思っていないらしい。ただ具合が悪いから、ということではなくて、レナルトに明らかな原因があるようだった。避けられるようになる前になにをしたのかよく憶えていない。心当たりはひとつもなかった。
 それだけにいつまでも納得がいかなかった。せめて理由があるならそれを知りたい。謝ったり正すことができるのならば、そうしたかった。仲のよかったアレンとのすれ違いは、レナルトにも嫌な思いをくすぶらせていた。
「そうじゃないんだ、レナルト」
 意外にも、アレンはそう言った。レナルトは腑に落ちなかったが、アレンの言葉を否定するわけにもいかない。アレンは苦しそうに続ける。
「ただ、……ほっといてくれないか」
 黒いまつげはまた伏せられる。目蓋の上の肉まで落ちてしまったようで、顔つきまで違う人間のようだった。もともとの二重まぶたははっきりと濃く、蔭を作っている。さすがに放っておくことができない変わりようだった。
「おい、具合が悪いなら診てもらえよ」
「いいから、構わないでくれ!」
「なにがどうしたって言うんだ。いまにも死にそうに見える」
「なにもない」
 アレンは頭を振るばかりだ。レナルトは、勉強机の椅子を引きだして腰をかけた。
「そんなこと言われて、信じられるわけがないだろう。病気じゃない、俺のせいでもない。じゃあ、なんだよ? 話してくれるまでここを動かない」
 アレンの眉が苦しげにひそめられ、それを耐えるように口元が歪んだ。しばらく、レナルトの存在も、その問いかけもなかったように陽の中で黙りこんだ。レナルトは決してそれにひるまなかった。口にした通り、そこを動かなかった。
 じっと見凝めていると、アレンの瞳からは動揺しているのがわかる。だから彼はただ、待った。落ち着くまで、ずっと待つつもりだった。
 そしてか細い声で少年が言うのを、レナルトは聞いた。
「おまえは、悪魔って信じるか?」
「悪魔?」
 ようやく引きだせた言葉がそれで、レナルトはすっかり当惑して眉を寄せた。予想もしていなかった答えで、からかわれているのかもしれない、と思った。アレンの顔には、寂しげな微笑に似たものが見えるだけだ。
「そう、悪魔」
「さあ、……どうかな、見たことはない……」
 レナルトはアレンの真意を測りかね、そう言うだけで精一杯だった。
「例えば、悪魔があのテオフラスト教授をさらったんだとしたら?」
「テオフラスト教授……? どうして教授の話が、」
「教授の日記を読んだんだよ」
「どこにそんなもの?」
「教授の部屋。……いるんだよ、悪魔は」
 レナルトはなにか確信に満ちた様子で話すアレンから目をそらした。はぐらかされているような気がした。それでも、その話を聞くしかできなかった。ともかく、アレンは語りだしたのだから。
「信じられないかもしれないけど、当の俺だっていまでも、自分が夢を見ているんじゃないか、ただ妄想しているだけなんじゃないかと思うくらいだ。でも昨日、レナルトもあいつを見てしまったのだから、だから、それは決してもう俺の夢じゃない」
 なにを言っているのかはわからなかった。ただそれでも、あいつというのだけは心当たりがある。昨日の夕暮れ、見かけた人影だ。
「あいつ? 昨日見かけた奴のことだよな。あれ、だれだったんだ? 見慣れない感じだったけど」
 そう訊くと、アレンはおかしそうに笑った。
「見慣れない……そうだよな」
 そして一人で納得したように頷く。
「あれは人間じゃない、悪魔なんだ。だから、おまえが悪魔を見たことないって言うのは嘘になる」
「まさか……」
「あいつは、夜な夜な、俺を呼びつけるんだ。それで俺をいたぶって、俺の体はもう俺の言うことなんか聞かないんだ。俺の体は恐怖の塊で、中からはそれしか出て行かない。ひどい傷は目が覚めるとなくなっているけれど、あいつは大したものじゃない痣とかは全部残しておくんだ。全部消えてれば、夢魔にとり憑かれたのだとでも思うのかもしれない。ただの妄想だって。……でもこれは本物の悪魔なんだ! 三年前にテオフラスト教授の魂も奪った悪魔だ。もう逃げられない。どうすることもできない。だから、ここにいるんだ。わかってくれたか?」
「……信じられない」
 うってかわった饒舌さに、戸惑うしかできなかった。レナルトが頭を振ると、アレンもまた頭を振る。
「これを見たら、信じる気になるか……?」
 アレンは皮肉げに笑うと、寝具のボタンに手をかけた。震える指で、ひとつひとつ外していく。
 おそろしいものを見る目でレナルトは露わにされた肌を見た。首に、鎖骨に、胸に、脇腹に。鬱血した痣がなにかの病気の症状であるかのように、アレンの肌を暗くしていた。少年のすべらかな肌は、痛めつけられてなお、瑞々しさに満ちている。そのことが妙にいやらしく、レナルトは悟らずにはいられなかった。つまり、アレンが悪魔になにをされているのかを、だ。
 悪魔がいるかいないかはどうでもいい。少なくとも、アレンが何者かに暴行を受けているということは確かだった。それを婉曲に悪魔と言っているだけなのかもしれない。
 レナルトは思わず手を伸ばし、アレンの肩に触れかけた。しかしそのとき、先ほどとは較べものにならないくらいにアレンの肩が震え、彼の恐怖が激発してこう叫んだ。
「やめろ、触るな!」
「ごめん、」
 それ以外に、レナルトになにが言えただろう。ただ傷ついているアレンを、そのためにこんなにやつれているアレンを相手になにができただろう。けれど、アレンはむしろ謝られたことに傷ついたようで、目を潤ませた。
「俺のことはもう放っておいてくれ、」
「そんなわけにはいかないだろう」
 レナルトは、言った。
「毎晩呼ばれるだって? それなら今晩は俺も行く。譲らないからな」
 悪魔だとかなんだとか、レナルトは信じていなかった。当たり前だ。そんなものをどうやって信じたらいいのだろう。それでも、アレンに暴行を加える人間がいるということだけは確かなことだ。
 アレンはレナルトの言葉を聞き、また口をつぐんだ。
 閉じた彼のまぶたは、弱々しく震えていた。
「……駄目だ」

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