第二章 2nd. 白い貌
《das weisse gesicht》
アレンはベッドに横たわって、本をめくるレナルトを見ていた。
アレンが連れて行きたがっていないのを感じとったのか、レナルトは午後の間ずっと、アレンの部屋で過ごしていた。どこに呼ばれるのか、どう呼ばれるのか、そんなふうな質問を彼はしなかった。レナルトはそれがどうだって構わないと思っているようだ。なにがなんでも、アレンについて来る気のようで、不機嫌な横顔で本の頁をめくっている。
アレンはといえば、拒否の言葉を言うこともできないでいた。レナルトが来ることは、少なくとも事態の改善に役立ちはしない。おそらく、真っ暗に口をあける地獄へと転がり落ちていくだけのはずだ。
アレンの胸の内は、不安と恐怖が入り混じっていっぱいになっていたが、その静かな午後の時間は心地よかった。レナルトと共にいる時間は、なににも替えがたいことをアレンは改めて思い知らなくてはいけなかった。ただ本当に、レナルトが好きだということを感じていた。
そのせいで悪魔に魅入られることになったのだとしても、アレンはその想いを責めることは一度もしなかった。レナルトがアレンにとってなにより一番大切なものだ、ということを悔やんでも、それはアレン自身を苦しくするだけだ。アレンは悪魔を喚んだ自分の馬鹿さ加減は呪っていたが、だれにも正当化できないこの恋とレナルトに罪はないのだった。
「……レナルト」
「うん?」
レナルトの名を呼ぶと、彼は本の中から顔を上げてアレンを見おろした。
陽の名残がレナルトの髪を照らし、輝かせている。そのしなやかな健康さに、アレンは目を奪われた。アルンハイムとは似ても似つかない。
「レナルト。やっぱりついて来たら駄目だ。……おまえまで悪魔に呪われる」
「行ってみなければわからない」
「お願いだ、レナルト。おまえはわかってないよ……悪魔に呪われるっていうことが」
「一人で行く気か?」
「……おまえは連れて行けない」
「怖いくせに、強がるな」
そう言われて、アレンはもう反駁できなかった。ただ涙を堪えて、枕に顔をうずめた。
もうすぐ夜が来る。悪魔の時間が来る。
やがて夜が更けた。消灯時間が過ぎ、寮の中も静まり返っている。しかしその闇の中から、呼ぶ声があるのをアレンは知っていた。今日もまた、彼を呼ぶ声があるのを。それは夜闇のしじまの中に少しずつ少しずつ交ざりこみ、いつしかはっきりとした呼び声となる。
どこまでが恐怖による幻聴で、どこからが本当にアルンハイムに呼ばれているのかアレンにはわからない。
それでも、闇の中に恐怖があった。アレンは長いこと、ベッドに身を起こして部屋の扉を見凝めていた。
――イグニシウス。
耳元で呼ばれたような気がした。怖気がみぬちを駆け抜け、アレンはこぼす。
「聞こえて来た」
本に目を落していたレナルトは顔を上げた。陽が沈んだあと、悲壮な様子のアレンを見凝め続けているのも気が引けて、また本に目を落していたのだ。
その気遣いが、アレンには痛いほどわかった。
それだからこそ、レナルトを塔に連れて行きたくなかった。
レナルトは、アレンの言葉に戸惑っていた。アルンハイムの声は彼には聞こえないのだろう。聞こえないうちに逃げだすべきだった。なのに、アレンはそう言うことができなかった。
なぜならアレンも助かりたかったのだ。だれかにこの苦しみと、悪魔の残酷さを理解してほしかった。夜な夜な奴隷少女のように悪魔に犯されていて、その痛みと悲しみ、自分の恋の絶望をも、どうにかしてだれかに知ってほしかった。その相手はレナルトでなくてもよかったのだが、いまアレンの前にいるのはレナルトだけだ。塔へとゆけば、自分が彼を愛しているということを秘密にしておけなくなると感づいてはいたが、もう止めることはできなかった。アルンハイムと出会ってから、アレンは孤独だった。レナルトとの絆を卑劣な手によって断たれ、文字の中にテオフラストの記憶を求めたが、それさえも昨日の夜に踏みにじられた。
「……聞こえない」
それがレナルトの返答だった。その囁きを聞きながらも、アレンにアルンハイムは囁いている。
――おいで、イグニシウス。
――おいで、イグニシウス。おまえの恋人と手を取りおいで。
――おいで、イグニシウス。おまえの望み、今夜を境に叶えよう!
その声はレナルトの声と同じだ。目の前のレナルトが言っている言葉なのかと錯覚してしまいそうになる。頭の中を掻き回されるようだった。
「俺を呼んでる。あいつ、わかってるんだ。……レナルトと俺が一緒にいることを。やっぱり駄目だレナルト……! 行っちゃ駄目だ」
だが、レナルトの決意も固く、アレンにはくつがえりそうにもなかった。
「俺が行かないなら、おまえもここにいるんだ」
そう言われることは嬉しかった。けれど、アレンはそうできないことを知っていた。アルンハイムが、悪魔が彼を呼んでいるのだ。いままでと同じように、アレンの意志でとどまれるはずはなかった。一人で行けばレナルトは助かるかもしれない。
「それができると思うのか? おまえは本当にわかってないんだ。あいつの恐ろしさを、いまだってこうやって、俺を呼んでる! 今夜を境に願いが叶うって言ってるんだ、駄目だレナルト!」
これ以上、関わらせるべきではなかった。――ただでさえ、アレンの願いに登場してしまう彼は、この呪いと無関係ではないのに!
すべてを秘密にしておけば、レナルトは関わることなく、アレンがただ滅びるだけで済むのだろうか?
少年は半ば恐慌を来たし、強くレナルトの手を握った。なにかに縋らなくては魂が消えてしまうようだった。でもそれは、取ってはならない手だ。レナルトが握り返して来るのに安堵しつつ、アレンは同じように恐怖も感じる。
「俺も行くから、アレン」
アレンはかぶりを振った。
彼をあの地獄にひきずりこむわけには行かない。呪われるのはアレン一人で充分なのだ。
(どうしたらいいんだ……!)
そのときだ。軋りながら、部屋の扉が開いた。二人ははっとして戸口を見凝める。暗く消灯した廊下を、戸口の枠型から見ることができた。それはさながら、先刻アレンが想像した、地獄の入り口だった。
それにはレナルトですら、身を震わせずにはいられなかった。扉には鍵がかけてあり、風や圧力などでは開かないはずだ。だれも触れていないのに、開くはずはなかった。……扉のむこうにはもちろんだれもいない。
アレンはベッドから足を下ろし、立ちあがった。行きたくなくても、彼の足は戸口へとむかう。もう体は言うことを聞かなかった。手を繋いだままでレナルトは、まるで引きずられるように一歩二歩と進んだ。
アレンはもう一度だけ訊いた。
「……レナルト、本当に来るのか?」
「行くよ」
彼は悲しげにそうか、と言った。
「着替えるよ、こんな格好だから」
レナルトと同様の制服にいでたちを変えると、アレンは部屋を出た。廊下に佇んで待っていたレナルトは、アレンに並ぶ。アレンは、昨日の夜を思い出した――アルンハイムに魅入られてからはじめて、自分の意志で部屋を出たのが昨晩だった。彼は闘争心を抱えてあの塔へ行った。はじめて、夢うつつではなく自分の意志で。
この夜もまた、アレンは逃れられない恐怖と戦いながらではあったけれど、自分の意志で部屋を出たのだった。
(まるで望んでるみたいだ。俺自身が、レナルトを地獄に突き落とすのを。俺がもう落ちてしまった地獄に。……レナルト!)
そのやましさで、アレンはレナルトを見ることができなかった。
二人は夜闇の中で寮を抜け、構内を過ぎてむかった――〈シャロットの塔〉へと。行く先を知らなかったレナルトは、二人の隠れ家がある北塔を前にして神妙な面持ちだった。
「こんなところで、」
その声には後悔がにじんでいる。彼が頻繁に足を運ぶこの塔で、そんなことがあるとは思っていなかったのだろう。悪魔がいるというアレンの言葉は信じているのだろうか、それとも信じていないのか?
アレンは言った。
「行こう」
塔の真下にある広い堂内には、もう既に悪魔の灯す明かりがついている。さすがにレナルトにも、明かりは見えているようだった。
アレンは扉を開いた。扉のむこうから、嗅ぎなれた
どうなるのか少しもわからなかった。レナルトが今度こそどうかされるはずだ。レナルトを地獄へと連れて来てしまったのは他ならないアレンだった。
それにレナルトは見るのだ。
悪魔アルンハイムが、レナルトの姿をしていることを。そして悟るだろう。あるいはアルンハイムが口にするだろう。――アレンがレナルトを愛しているということを。それが、アレンがもっとも恐れていることだ。魂を奪われることや地獄に落ちることなど構わない。レナルトにこの気持ちを知られることが、なにより怖くてならなかった。
堂の中央にアルンハイムが立っている。いつもとなにも変わらない。彼がレナルトでないとわかったにもかかわらず、悪魔はアレンを惑わすレナルトの姿をしたままだ。惑わせることにはならなくても、アレンを苦しめるには充分な姿だった。
壁際に居並ぶ悪魔たちの様子も、いつもと同じだ。ただひとつ、いつもと違うのはアレンの傍らにいるレナルト。
「なんだ……これ、アレン、」
レナルトはあきれ返ったように呟いた。その様子は、はじめて悪魔に会った夜のアレンと同じだった。堂内に並んでいる人々の奇妙さに首を傾げ、最後に真ん中に立つ悪魔を見るのだ。
アレンは答えず、代わりにアルンハイムがこう言った。
「イグニシウス。おまえの望みはなんだった?」
「言わないでくれ!」
アレンの声は悲鳴だった。
「そのために連れて来たのだろう。私が言った通りに手を携えてやって来たではないか」
「違う、」
「おまえの望みはなんだった、イグニシウス?」
アレンは、怖くてうかがうことのできなかったレナルトを振りかえった。案の定、彼はぽかんとした顔でアルンハイムを見凝めている。漠然とした不安とも言うべきものが、彼の薄い萌黄色の瞳にあらわれていた。
まだなにも知らないレナルト。この瞬間に世界が終わればいい、とアレンは思った。
「イグニシウスっていうのはアレンのことか、」
レナルトの呟きに、アルンハイムが応じた。悪魔は相も変らぬ嫌味な様子で、慇懃に礼をすると、
「ああそうだよ、レナルト」
「俺を知ってるのか?」
「知らないはずはないだろう?」
「だれだ、あんた。……」
「イグニシウスに聞かなかったのか?」
「悪魔、
……それが馬鹿げてないのがようやくわかった」
アルンハイムは声を上げて笑った。
「私はそんなに忌まわしいなりをしているかな」
「おまえは呪われてる……」
愉快そうに悪魔は口を開いた。
「訊いてもいいかね? 君に私はどんな姿で見えているのというのだ?」
アレンは哂うレナルトと困惑したレナルトを交互に見凝めていた。レナルトの様子は、アレンが予想していた反応ではなかったのだ。自分の姿をそこに見たら、もっと違うことを言うはずだ。彼がなにを言うかは知らない、それでも違うことを言うはずだった。悪魔の問いかけも空々しい。なにかがあるのだ。
レナルトは言った。
「なにもない。なにもついてない。それは仮面じゃないよな? まっしろで、……のっぺらぼうだ」
「そうか、ならばおまえにはまだ愛する者がいないのだな」
いったいなにを言われているのかアレンにはわからなかった。のっぺらぼう? 愛する者がいない? それが不吉な意義をはらんでいることはもちろん知れた。アルンハイムが撒く種は、すべてアレンの絶望と恐怖のためのものだからだ。
目をみはる彼の前で、アルンハイムはなおも絶望の言葉を吐く。
「私は、悪魔アルンハイムと呼ばれているよ。
私の姿を見るとき、にんげんは自らが深く愛した者の姿を映す。私がどんな姿なのか、それは見る者が決めるのだ。この世に生きていようと、もう黄泉の国に行っていようと構わずに。人間の心の奥底の鏡こそが私だ。レナルト、おまえは心の中にだれのことも想ってないから、顔のない化け物のようなものが私だと思うのだ。恋をしたことがないのか? 左様、それならばその心の内に情熱がないわけもわかる。だからおまえには、私の姿がなにもなく冷たい無生物のように見えるのだ。
さてイグニシウス、おまえに私はどんなように見えているのだったかね?」
レナルトがアレンを見る。ふたつの同じ顔が、アレンを責めたてていた。
(……そういうことか)
悪魔がアレンの前にレナルトの姿であらわれ、テオフラスト教授の前に亡妻の姿であらわれたわけが、はじめて知れた。昨日の夕方、レナルトがアレンといるアルンハイムを見て「見慣れない」と言ったそのわけも。それは決して、自分の姿は見慣れていないとかいうことではなかったのだ。
「言わないのなら私が言おうか? それともおまえの望みを言おうか? 選びたまえ、イグニシウス!」
「嫌だ……言えない、言えるはずがないだろう!」
一番の悪夢が現実になろうとしている。アレンはそれを望んでいなかった。なのに、彼は悪魔にそれを望んだのだ。
アルンハイムは嘲笑する、――
「魂を売ってまで望んだことだ、なぜ言えない!」
「お願いだ……やめてくれっ……!」
「これを始めたのはおまえなのだよ、イグニシウス。賭け金はおまえの魂。降りることは許されていない。さあ、そろそろカードを切ってもいい頃合だね?」
「やめてくれ……」
なおもアレンは懇願した。悪魔が聞くもはずないことはわかっている。それでも言わずにいられなかった。いつかこの学園での生活が思い出になってしまったあとでも、なにが起ころうとも、だれにも告げることなく秘めておこうと心に決めていた恋だったのだ。それがゆえに想いは捌け口を求めて、「悪魔ごっこ」という形をとったというのに、こんなことになるなんて。
だれよりも知られてはいけなかった人が、レナルトその人なのだ。
「願わくば」アルンハイムは陶然と微笑み、呟いた。「この想いをレナルトに伝え、そして彼に愛されますように」
レナルトは、意表をつかれてアルンハイムを見凝めた。アレンの喉の奥からは、もう悲鳴にもならない掠れ声が漏れるだけだ。
悪魔だけが悠然と、ふるまいも美しく言葉を続けた。
「意味がわかるだろう? つまり、いまこの瞬間にイグニシウスの目にはおまえが二人立っているように見えるということだ!」
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