第二章 3rd. 誘惑
《der versucher》

 悪魔の言葉が本当なのか、レナルトは問わなかった。それに、悪魔とアレンが彼に語ったことのすべてを、正しく理解していたわけでもなかったのだ。混乱の中で、レナルトはうずくまって泣いているアレンを見て、悪魔の言葉がアレンを追いつめている、ということがわかっただけだった。
(俺が……なんだって?)
 悪魔の言っている「愛」がただの友情なんかでないことは、気がついた。細部の事柄はわかるのに、冷静にすべてをまとめてそれに対して反応することができない。異様な空気に包まれて、悟性というものは失われていた。
 なんのためにここに来たのか、それすらレナルトには見失われていた。
(アレンを、泣きやまさせなくちゃ、)
 そう思ってレナルトはかがみ、アレンの肩に手をまわした。彼を抱きかかえるようにして、悪魔を見る。悪魔はなにをしようとしているのかもわからない顔で(レナルトにはのっぺらぼうに見えるのだから当然だった)二人に歩み寄る。そのときようやく、レナルトは恐怖というものを感じた。本物の恐怖、自分の存在を根こそぎにされる危機感への恐怖だった。
 逃げなくては、と彼は思ったが、腕の中のアレンがそれをさせなかった。気力をすっかり失ってアレンは、ただ震えていた。
 悪魔はアレンを呼ぶ。
「おいで、イグニシウス」
「いやだ」
「おいで」
 突然アレンは立ちあがった。逃げだすのかと思って彼を見ていたレナルトは、しかし、身を震わせながらアルンハイムにむかって足を進めるアレンを見てあっけに取られた。
「いやだ、」
 拒否の言葉を吐きながら、アレンは悪魔の腕に中に倒れこむ。アレンにすれば、それは悪魔の腕の中であり、なおかつレナルトの腕の中だ。
「いやだ!」
「いつもより気丈だね、イグニシウス。レナルトが見ているから?」
「アルンハイム……まさか、まさか!」
「なにがまさかなんだ?」
 アルンハイムの嘲笑はすぐに途切れる。
 レナルトの見ている前で、アルンハイムはアレンの唇を奪った。瞳を潤ませながら少年はあえいでいる。しかし、かたやそれを与える悪魔の顔をレナルトは見ることができなかった。歪みもしない、硬質な白い貌。それゆえに、たった一人で欲情し、も掻くアレンの表情はこの上もなく淫らだ。
 アレンのためにも、それは見ないでいるべきだった。彼が心では悪魔を呪っているのがわかるからだ。できれば、悪魔のその手からアレンを解き放つべきだった。
 レナルトは意を決して立ちあがった。だが、気づけば周りを埋め尽くす人間たちの中にいる。さっきまで壁際にいた人間たちだ。どれも姿は人間のようだが、ただの群衆には見えない。ぞっとするものがみぬちを駆け抜ける。多種多様な人間がそこにいるのだが、皆ながら、アレンとアルンハイムのいる壇を中心に視線を注いでいた。
 彼はその人々を押しのけて進もうとしたけれど、目の前にいるか細い女の肩でさえ、どかそうとしても石のように重たく、びくともしない。彼らはレナルトを閉じこめる、生きた監獄なのだった。
「アレン!」
 アレンは壇の上に乗せられて、群衆の間からでもよく見ることができた。その壇上に、少年は追いつめられて身をかがめていた。あまりにも弱々しく、そして愛らしい生贄だった。
 アルンハイムが手を伸ばし、アレンの制服のタイを掴む。悪魔はそれを、ゆっくりと引き抜いた。彼は震えて縮こまりながら、ただ、アルンハイムがボタンを外していくのを見凝めている。あらわになる膚を、隠すこともできずに見おろしていた。
「アレン!」
「見ないでくれ、レナルト……いやだあ!」
 ひきたおされて起きた悲鳴に、レナルトは目をそらした。それはあまりにもむごく、続くアレンの声をも、耳を塞いで防げればいいのにと思った。しかし、強烈な悲鳴は耳を覆う手を通り過ぎて、レナルトの鼓膜を震わせてしまう。視覚のように、完全に遮断することはできなかった。
「いやだ、ああァアッ、ああー!」
「悲鳴を上げながら、イグニシウス、おまえの食いつきようときたらいつもとくらべものにならないじゃないか? レナルトがいるせいか?」
「うう、はあ、悪魔め……ッ」
「必死でレナルトは目を瞑っているじゃないか。それがおまえの友情か! よく見たらどうだレナルト? おまえにはわからなくとも、イグニシウスはおまえの姿に抱かれているのだぞ!」
 はったと、その言葉にレナルトは目を開けてしまった。台上に折り重なった人影が目に飛びこんで来る。見せつけようというばかりに、悪魔の腰はどぎつくアレンの身を苛んでいた。
「……アレン、」
 吐き気がした。それほど、異常な光景だった。
 泣き叫び悲鳴を上げるアレンは、けれどまるで自ら掲げるように臀部を晒し、アルンハイムの腰の動きに呼応するように彼もまた腰を振り、受け入れている。悲痛な叫びと裏腹に、アレンの体は歓喜して受け入れているように思えた。細い少年の体は、軋みそうに責められながら、紅潮して反り返っている。
(これはアントニウスの誘惑か!)
 レナルトはまた目を閉じたが、やきごてを押しつけられたように、見えた情景は二度と彼の脳裏から消えうせなかった。むしろ引き続くアレンの悲鳴がその光景を助長する。そしてレナルトは、身悶える友人の肢体を思いながら、悲鳴がただの悲鳴でないことにも気がついた。アレンは感じているのだ、あの悪魔に責められて。肛腸を犯されて、それでも、アレンは感じているのだ。
(気持ち悪い……!)
 アレンが感じているのは肉体への刺激だけではなくて、悪魔がレナルトの姿をしているからなのだった。
(どうかこれは夢だとそう言ってくれ!)
 不意に肩を叩かれ、レナルトは身を震わせた。振りむくとそこに、白い仮面の悪魔が立っていた。悲鳴を上げ、レナルトは後じさり、隣に立つ人間と肩をぶつけた。だがまるで壁にぶつかったようだ。台上をうかがえば、もうそこに悪魔の姿はなく、放擲されたアレンが横たわっているだけだ。
「私はイグニシウスと契約を交わした。彼の願いを叶え、そしてその対価にイグニシウスの魂が私のものとなるのだ――叶えてやれるな、レナルト」
「願い?」
「聞いただろう? おまえがイグニシウスを愛すのだ!」
 人垣が動いた。アルンハイムはレナルトの手を握り、アレンの横たわる石の臥所へと連れだす。間近で見れば、アレンの肉体は荒淫に熱をもち、彼自身と悪魔の放った精の中で身を震わせていた。
 平気なのか、と声をかけることはもはやできなかった。レナルトは、アレンが歓んでいたのを知っていた。
「レナ…ルト、逃げて、」
 ここに来たのは間違いだった。アレンの警告は正しかったのだ。レナルトは、悪魔の恐ろしさを知らなかったのだ。
 だが今更どうやって逃れようというのだろうか。レナルトは硬直し、やはり悪魔が彼の襟元に手を伸ばしてくるのを見凝めていた。恐怖が指も手も動かすことを許さない。
「逃げろ、レナルトの馬鹿野郎!」
 アレンの怒声で我に返った。レナルトははっとして、アルンハイムの手を払い落としたまではいいが、身動きが取れない。あたりには観客たちが囲みを作り、その頑強さは先ほど身をもって知っていた。それに、さすがにアレンを置いていくことはできなかった。
「悪魔め……!」
「これはイグニシウスにも言ったことだが」アルンハイムは言った。その声は、レナルトにはキンキンと響く金属のうち叩かれる音に似たものに聞こえた。「私はそそのかすことなどしないのだ。いつもこちらへ落ちてくるのは、おまえたちなのだよ」
「俺は落ちてなんかいない」
 レナルトはそう呟いた。だが、悪魔の白い顔からは、甲高い笑いが響くばかりだった。アルンハイムは両手を伸ばし、レナルトのタイを奪った。それはひらりと床に落ち、一人でに触れたレナルトの足を縛った。悪魔の手は、強引に彼のシャツを引き破り、恐怖に凍える少年の膚を舐めるように触れる。
「おまえは落ちるよ」
「やめろアルンハイム」
 アレンだけが懇願をやめなかった。
「俺はそんなこと望んでない」
「おまえの願いはこういう意味でもあるはずだ」
「お願いだ……レナルトを巻きこまないでくれ!」
「おまえが願ったのだ、イグニシウス。それだけだ」
 悪魔はアレンの見ている前で、レナルトを腕に抱き、舌と片方の手で、彼の欲情を煽った。執拗な悪魔の愛撫に、少年の劣情は弱かった。レナルトは当惑し、耳朶をかむ悪魔の歯に身悶える。アルンハイムの仮面にくちづけられ、その石のような唇を感じたあとはもう、なにもかもが夢うつつのようになってしまう。
 聞こえるのはアレンが叫ぶ声ばかりだ。それも、耳元で鳴り響いているはずなのに不思議と鼓膜には遠い。苦痛の悲鳴のはずなのに、欲情を煽る甘い掠れ声のようにも聞こえるから不思議だ。
 体中の細胞という細胞に火がつき、燃え尽きていくようなこの感覚。それをなんと呼ぶのか、レナルトは知らなかった。ただ耳に残るのは、組み敷いた少年の掠れた声、ただ目に映るのは、涙に溢れた少年の黒い瞳。

 剥き出しの背中から、根こそぎに熱を奪う寒さで目が覚めた。レナルトの体の下は温かい。――身じろぎせずとも、それが彼と同様に裸身のままのアレンだということはわかった。
 体のあちらこちらがぎこちない。殊にぎこちないのはその下腹部で、レナルトはやっとの思いで、まだアレンの中にとどまっていた彼自身を抜いた。腕がぶるぶると震えるのは寒さのせいではない。すっかり萎えた少年のものは、えも言われぬさまでよごれきっていた。
 あれから、どれくらい時間が経っているのかはわからない。堂内は、蝋燭の明かりに照らされていた昨晩とは違って薄暗く、片隅にある小さな明かり取りからは曇り空の灰色を見ることができた。もう朝になっているのだろう。
 レナルトは台座を飛び降りると、うずくまって胃の中にあるものをすべて吐きだした。理性を失ったのと同じように、記憶も失われればよかったのに、レナルトはそう思いながら、たいして吐くものもない胃をひっくり返して呻いた。吐きだしたものはほとんどが黄褐色の胃液だった。
 呼吸が落ち着いてからあたりを見回すと、壁際に佇む人影があるのに気がついた。この闇の中で、白い影のように浮きあがって見える。はじめはなにかの光が漏れているのかと思ったけれど、目を凝らせばそれは一人の少女の姿なのだった。
 不気味な白い影のようだ。ゲルトルートの古城に巣食う白い女の亡霊かもしれない。そんな噂だけは山のようにある城だ。
 見回したが、壇のまわりに昨日奪われた衣服はなかった。仕方なく、レナルトは手の甲で口元をぬぐうと立ちあがり、そのままの姿で少女に近寄った。すると少女は、蛇を思わせる動きですぐ背後にあった扉に消える。扉を開けたということは、少なくとも幽霊ではないということだ。追ったレナルトが次の間に足を踏み入れると、水の音が聞こえた。
 グロット内にはアラバスタで出来た噴水がしつらえてあった。清水が中央に立つ節制エンドル・エントハルトザムカイト像の手の甕から流れ続けている。噴水の淵から、あやういところで水はあふれていない。壁に大きな口があいていて、そこから外に流れだしていた。華美すぎない装飾が施され、隣の部屋よりも肌寒かった。水の受け皿自体はとてもひろく、レナルト一人が身を沈めても窮屈ではなさそうだ。
(こんなところ、あったのか? ……まさか。学校にグロットなんてなかった)
 この学校にあるはずのないものだ。悪魔が作りあげた幻かもしれなかった。
 少女はその傍に立ち尽くし、レナルトを認めると言った。
「この水で体を清めるとよい。そなたらの服はここに」
 少女の言ったとおり、すぐそこに服が置いてあった。暗くて確かめられなかったが、制服のようだった。
 頷く間もなく、少女はまたいつの間にか身を翻し、扉から姿を消していた。
 レナルトは、遠慮なく冷たい水に身を晒した。清冽な水に身を浸すと、さかしまに昨日の晩のことを思い出さずにはいられなかった。自分の膚に、だれに付されたのかは知らないけれど、鬱血した痕がある。アレンの膚に見えたこの痣に、眉をひそめたのはつい昨日のことだというのに。
(ありえない……現実とは到底思えない。こんなになにもかもが生々しいのに、現実だとは思えない)
 レナルトに考えることができたのはそれだけだった。あとはどうだってよかった。アレンがどうだとか、悪魔がどうだとか、考える気もおこらなかった。
(早く寮に帰ろう。これは夢だ。寮に戻って、寝てしまえばすっかり忘れてしまえる)
 気が済むまで体をこすってから水を出た。冷た過ぎる水に、皮膚は感覚をなくしていたけれど、それくらいが気持ちよかった。
 制服と一緒に布が重ねてあったので、それで水気をぬぐう。二着ある制服は、片方のブレザーの内側に彼の名前が刺繍してあり(もちろん、もう片方にはアレンの名前が入っていた)、間違いなく彼のものだった。
(アレンもほっとくわけにはいかないな)
 そう思ってもとの広間に戻ると、台の上でアレンが泣いていた。いつの間にか目を覚ましていたらしい。
「アレン」
 身を震えさせ、唇を切ってしまうくらいに噛みしめて、泣いていた。レナルトはどうにかして友人の手を引き、水辺まで連れて行った。水や制服といった現実感のあるものを目の当たりにして、アレンは少し落ち着きを取り戻したらしく、嗚咽が止まる。
「こんなところ……いつの間に」
「俺もわからない」
 レナルトが肩を竦めると、アレンもあまり気にしないことにしたようで、恐る恐る冷たい水に足を入れた。
「冷たい」
 そう言いながら、アレンはようやくいつもの調子を取り戻して来て、少しずつ口数が多くなった。あまりにも、なにもなかったようなレナルトのふるまいに毒気を抜かれたのだ。レナルトにその自覚はなかったが、アレンの気を確かにする役には立っていた。
 だがレナルトも、アレンの体を洗うのを手伝ってやりながら、彼の体の中を洗い流して白いものが出て来たりすると、まったく忘れているわけにはいかなかった。そんなときにレナルトの顔は石になったように強張り、血の気が引いた。それが彼の放ったものであることは、だれにも否定できなかった。
「制服、レナルトが置いたわけじゃないんだろ?」
「ああ、女の子がいたから、彼女が置いたんだろう」
「それは、気持ち悪いくらいに白い子だった?」
 レナルトが頷くと、アレンはそうか、と答えた。
「何度か見かけたな。アルンハイムのしもべなんだろう」
「それより早く戻るぞ」
「うん、……そうだね」
 レナルトに促され、アレンも制服を着た。二人揃って身なりを整えると、〈シャロットの塔〉でただ遊んでいただけのような気がした。なにもおかしなことなど起こらなかったようだった。
 二人は戸を開け、朝霞の中を寮へと歩きだした。

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