第二章 4th. アルンハイムの領土
《die domaene von arnheim》

 おかしいことにはすぐ気がついた。北塔を出るところでもうゲルトルートとは違っていたのだ。
 学園の校舎では、堂の扉を開いて少し回廊をゆき、塔の外郭にある拱門アーチをくぐるとそのまま、寮や本校舎のあるほうへと石畳が続いている。だが、その石畳へと踏みだしたはずの足が空を切り、レナルトは何段か階段を転がり落ちた。
「レナルト!」
 濃い霧のせいで、アレンからすれば突然、レナルトの姿が掻き消えたかのようだった。
「いってぇ……」
「レナルト」
「階段がある。……気をつけろ」
 レナルトからも、アレンの足がようやく見えるほどの濃霧だ。階段を降ったアレンはレナルトを見つけ、かがんでようやくお互いの顔を見ることができた。
「平気か?」
「落ちただけだよ」
「変だな、階段なんて。……それに地面、芝じゃない」
 レナルトはアレンにそう言われて、改めて、自分が手をついている地面を見た。掌を見ると、少し湿り気のある泥がついている。学校では、このあたりは、石畳に覆われているか、そうでなければきちんと造成されて芝が生えているのだ。制服も泥にまみれていた。
 二人は立ちあがり、それでも進んだ。進まないわけにはいかなかった。
 あたりは息苦しくなるほどの乳白色の霧ばかりだ。レナルトとアレンは手を繋ぎ、少しずつ足を踏みだした。そうしなければ、すぐにはぐれてしまうほどだった。それに、先程のように、いつの間にか知らない階段ができているのではないかと恐れて少しずつ進んだ。
 しばらくして、ようやく一本の石畳を見つけた。見憶えのある道ではなかったが、それを進んだ。
 二人とも時計を持っていなかったから、正確な時間がわからない。霞の中でもあたりは明るいので、日中のはずだ。だというのに、ここが学校だとしたらあまりにも静か過ぎる。授業時間であったとしても、人の気配すら感じられないのはおかしかった。
 やがて、足を止める。目の前に、黒い石造りの一棟の建物が見えて来た。三階ほどの建物で、微細なところは違ったが、学書棟であるのは間違いなかった。
「……俺たち、どう通って来たのかな」
 アレンが小さく呟き、レナルトは、さあどうかな、と応えた。
 北塔から学書棟までの間には、教室に使用している棟が二つあり、その下をくぐるか、傍を通らなければ学書棟まで辿りつけないはずだった。この濃い霧のせいで見落としたというのもおかしな話だ。それに、学書棟の周りに広がっているはずの潅木の茂る中庭が、跡形もなく消えていて、泥が剥き出しになった地面の上に、二人が歩いて来た石畳だけが一本、学書棟へと伸びていた。
「入ってみよう」
 レナルトはそう言って、アレンの手を引いたが、彼は簡単には動かなかった。
「学書棟の中には、俺が悪魔を喚びだした魔法書があるんだぞ」
「それでも、アレン。確かめなくちゃあ……!」
 そうは言うが、レナルトもまた、アレンと同じように恐怖に駆られていた。寒いのに、二人の掌は汗ばんでいる。
 ここが、二人の通っていた学園だとはとても思えなかった。それでもまったく知らない場所ではない。ゲルトルートに、とても似ていた。けれど、ゲルトルートにはないものが山のようにあった。
 二人は学書棟の拱門をくぐって薄暗い建物の中へと入って行った。
 予想通り、建物の中は勝手知ったるものとは違っている。あたりを見回しても本などどこにもなく、広い図書室に見知った机もない。司書のいた受付には一枚の絵が架かっていた。長い年月を蝋燭の明かりに照らされ、煤けてしまった肖像画だ。闇の中に暗く沈んでいるが、鎧甲冑を着た金髪の女なのがわかる。――Gertrude von Urach。額縁にはそう、記されている。
「ゲルトルート・フォン・ウラッハ。……じゃあここはやっぱり、ゲルトルートなのか?」
 レナルトの問いに、アレンは答えなかった。そんなことは、彼にもわからなかった。
 昼間だが、ほとんど陽の射さない建物の中は薄暗い。
 建物の深くへ足を進めることは、さすがにできなかった。なにより明かりがない。蝋燭はところどころの壁にかかっているのだが、火を灯す道具がなかった。
 傍にあった椅子に腰をかけ、二人は沈黙した。
 それぞれがそれぞれの理由から、なにも言うことはできなかった。
 レナルトには、なにを考えていいのかさえわからなかった。覚めると思った夢は、いつまでも覚めない。おかしくなりそうだ。この奇妙な状態に気はまぎれていたが、考えるのをやめると昨晩の悪夢がすぐに蘇る。なのに、なにを考えていいのかわからないのだ。
(くそっ……)
 しばらくしてからアレンが立ちあがった。
「外を探そう。だれかいるかもしれない……」
 実際はそんな期待もしていないような言葉だった。だが、そうする他はないような気がして、レナルトも立ちあがった。
 幾度か見憶えのある、けれど記憶と同じではない建物に巡り合っては、そこを過ぎた。だれの姿も見かけなかった。ホーエン・ウラッハ城の構造を考えると、二人がいるのは学園があった高台だ。しかし、学園には山の上まで道が通されていたが、二人のいる場所にはそれはなく、山を降りる道の替わりに、白い霞に飲まれた崖があるだけだ。
 だれの姿も見かけなかった。
 霞はいつまでも晴れず、やがてあたりは緩慢に暗く沈み始める。陽が沈んでいるのだろう。学書棟に戻ると、ちらほらと蝋燭の明かりが灯りだしているのを目にした。
 明かりは、どこからの隙間風かはわからないのだが、そのせいで揺らいでいて、落ちる影も揺れる。蝋が燃えるにおいがする。
 そのにおいに、レナルトは昨晩の堂を思い出してぞっとした。だれがつけたと言うのか。この建物の中に人の気配はないというのに、だれがレナルトたちの傍にある蝋燭にまで火を灯したのだろう?
 アレンが不意にはっとして顔を上げた。
「あいつだ」
 ぎゅっと手を握りしめられ、レナルトもぞっとした。言うまでもなく悪魔のことだった。レナルトはどこかから響いて来る靴の音を耳にしていて、やはり悪魔に違いないと感じていた。
 二人が気づいたとき、悪魔は既にその部屋の中にいた。
 ゲルトルート・フォン・ウラッハの肖像の前にアルンハイムは立っていた。蝋燭の明かりが、アルンハイムの影をその絵の上に落とす。その影が揺らぐ様子は、まるでゲルトルートの纏う外套が揺れているようだった。
「アルンハイム――」
 アレンが呼ぶと、悪魔は彼にむかって手をさしのべた。
「おいで、イグニシウス。この城を見せてあげよう」
「ここはどこなんだ」
「ここは私の領土、私の領域。おいで。もう陽も暮れた」
 そう言うとアルンハイムは学書棟の外へと歩きだす。アレンとレナルトは、顔を見合わせるとその背を追った。選択肢は他になかったのだ。ここが悪魔アルンハイムの領域であるということは、知らない場所だということだ。
 アルンハイムを追って二人ははじめに出た塔へと戻って来ていた。ぞっとしないが、悪魔が中へ入っていくのを見て追わないわけにはいかなかった。悪魔は広間へとは入らず、そのすぐ傍にある階段に足を踏み入れる。
 場所からすればこれは〈シャロットの塔〉だろう。だが、こんな階段はなかった。ゲルトルートにあった塔は壁に刻まれた梯子状になっていて、煙突穴のような窮屈な階段を登っていかなければならなかったのだ。
 螺旋状の階段が続く。レナルトは、黙々とアルンハイムの後を追うアレンを、さらに追った。目の前で階段を登ってゆくアレンの脚は、かすかに震えている。アレンが怯えていることによって、レナルトはむしろ、心を平静に保つことができた。
 一番上までゆくと、そこは〈シャロットの塔〉にあったと同じような小さな部屋だった。広さはあまり変わりがなかったが、窓はあそこよりもずっと大きく、景色をよく見晴るかすことができる。
 高さも、こちらのほうがあるのだろう。景色は夜になってもぼやけたままだったが、視界がとても広いことだけはわかる。
 城内に灯る火が、白い霧を透かして見える。その炎は、だれが灯したのでもなく、悪魔の力で燃えているようだった。
 悪魔は窓辺に立つと、二人に景色を見せるように促す。そして、口を開いた。
「ここが私の領土だ」
「……いいから、俺たちを帰せよ。元の場所に。学校に!」
 アレンは食ってかかるが、アルンハイムはそれを気にしてはいなかった。
「帰ってどうするというのだ、イグニシウス。また、自分の部屋にこもって泣き続けるのか? そして夜になれば、私のもとにやって来るのか? せっかくおまえが、レナルトをここに連れて来たというのに」
「いいから……帰せ!」
 アレンは悪魔をにらみつけて叫ぶ。悪魔は哂うばかりだ。
「イグニシウス、おまえはその望みが叶う日までこの城で暮らすのだ。そのためにこの封土へと連れて来たのだから――ここはおまえの魂の終の棲家となる」
「レナルトは関係ないじゃないか……!」
「関係ない? それが嘘であることはおまえ自身がもう知っているはずだ。おまえはレナルトに愛されたいと願ったのだ。それに忘れたわけではあるまい。昨夜おまえを抱いたのは私では」
「もうやめろ!」
 悪魔の言葉のさなかに、レナルトは痺れを切らして割りこんだ。もう聞きたくなかった。それが現実だったということを、レナルトは思い出したくなかった。アレンが苦痛に満ちた顔でレナルトを見凝めているのがわかったけれど、どうしてやることもできない。アレンさえも憎いと、口に出してしまいそうだからだった。
「消えろ、悪魔」
「ここは私の領土だ」
「俺の前から消えろ」
「すべては、イグニシウスが望んだことだ。そして私は、イグニシウスが望んだからこそその夢を、願いを、恋を叶えるのだ。さあおいで、イグニシウス。階下ではもう宴の準備が整った頃だ――」
 アレンはそろりそろりとアルンハイムに導かれるまま、足を踏みだす。けしてレナルトを見なかった。それは悪魔に操られたせいではなく、レナルトが目をそむけているせいだった。
 二人が消えた螺旋階段からは、アレンのこいねがう声が小部屋にたたずむレナルトに聞こえて来る。
「アルンハイム、俺はいいからレナルトを帰してよ……」
 悪魔のいらえは聞こえなかった。あとはただ、静かだった。
 レナルトは部屋に残され、窓から昏い景色を見凝めた。気持ち悪い。どうしてこれが夢ではないのだろう。どうして、悪魔にそそのかされたとはいえアレンのことを抱いたのだろう。ああなる前に死を選んだほうがずっとよかった。
 夜風がレナルトを誘っていた。
 この小部屋は十分に高いところにある。下は石の敷き詰められた回廊だ。頭を下にして落ちれば、死ねるだろう、そう思った。こんなところにいなければならないというのならそのほうがずっといい。アレンは悪魔についていった。それでいい、こうなったのはアレンのせいなのだ。そのアレンを遺していけない、と思うほど彼自身は愚かではないはずだ。
 レナルトの上半身が傾きかけたとき、螺旋階段を登る足音があるのに我に返った。夢から覚めた気分で振りかえる。
「……レナルト」
 階段の暗闇から姿を現したのは懐かしい男の姿だった。テオフラスト教授は、三年も前に失踪したレナルトとアレンの教師だった。アレンは悪魔が彼をさらったのだと言っていた。だからこの領土にいるのか。だから、アルンハイムの領土にいるのか。
「テオフラスト教授」
「聞け、レナルト。おまえがたったひとつ、してはならないことがある。それは、なんにせよあの悪魔に対して頼むだとか願うだとか言うことだ。口にすれば最後、悪魔はおまえの魂を奪うためにどんなことでもするだろう。私の魂を奪うために悪魔が腐心したように。そしてアレンの魂を得るために手管を尽くしているように。おまえは決して口にしてはいけない。口にしたら最後、おまえはすべてを悪魔に奪われるだろう」
「テオフラスト教授!」
 その様子は普通ではなかった。まるで死者のようなその姿は、近寄るのもためらわれる。
「花園へ来るといい、レナルト。そこでならおまえに話してやることができるだろう。明るい真昼、悪魔がこの世界を支配することのできない刻限に私を探すのだ。しかし決して気取られるな。私という花を摘むのは、悪魔にはたやすいことなのだ。私はもはやあの悪魔のものであり、おまえたちを救ってやりたいとこうまで思わなければ自由に言葉を喋ることも難しいのだ。だがいまはゆけ。時間がない!」
「では、悪魔があなたをさらったというのは本当なんですか」
「私の魂は神の前に立つことはないだろう。だがそれは不幸か? それは花園を見てから問うのだ、レナルト! さあ行け。おまえには悲鳴が聞こえないのか? おまえを愛する倶友ともの悲鳴が!」
 レナルトの耳には、確かに闇のしじまを切り裂くアレンの悲鳴が届いていた。
「悪魔には決して逆らうな。そして希望など捨てたと思わせるのだ。黄昏が過ぎたら、決して私のことを口にはするな。悪魔には知られないようにふるまうのだ。花園へ来い、レナルト」
 レナルトはその姿に圧倒され、階段を降りた。一段ずつ踏みしめながら、階下へゆけば行くほどアレンの悲鳴が近くなって来る。それと共に、自分の血が引いていくのがわかった。
 テオフラストの姿が現実なのかどうかわからない。あれは追いつめられたレナルトが考えた妄想なのではないだろうか。あるいは悪魔アルンハイムの趣向のひとつではないのだろうか。
 テオフラストは花園へ行けと言った。だが、昼間歩いた限りではこの城の周りに花などある気配もなかった。なにもかもが死に絶えた石造りの城内のどこに、花園があるというのだろう。
 レナルトは我慢できなくなって、もう一度階段を駆け登った。
 蝋燭の灯る小部屋には、闇以外なにもなかった。甘い花の香りはしていたが、テオフラストがそこにいたという痕跡はない。ひとつしか階段のない塔の天辺から、人間が消えるはずがなかった。
(やはり幻なのか。……俺ももう、おかしいのか?)
 笑いだしそうになったとき、窓辺に一冊の本が置いてあることに気がついた。確かな記憶ではないが、さっきはそこになかったものだ。皮装丁の日記帳だった。めくると、一番はじめの扉にはテオフラスト教授の名が記されている。
 ページをめくって中を読む余裕はなかったが、ずっしりと重たい日記帳を手にすると、さっきの教授の存在も嘘ではないという核心が胸に芽生えた。少なくとも、花園に辿り着くまでは諦めるまい、と彼は決意した。
 日記帳を窓辺に戻すと、少年は階下へと降りていった。レナルトがその日記を目にすることは二度とないのだが、それを理由に不安を感じはしなかった。
 とまれ希望はテオフラストにのみあった。この悪魔の領域から逃れるすべがあるというのなら、テオフラストの言葉に従うほかはない。どうにかしてこの世界から逃れなければいけない。
 それがたとえ悪魔の姦計であったとしても、レナルトには、ただその言葉に従うしかなかった。
(そのためなら、悪魔がアレンを抱けというなら抱いてやる。この世界から逃れるためなら、なんだってしてやるさ……!)
 そしてレナルトは、昨夜と同じ狂乱の中へと足を踏み入れていった。

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