第三章 1st. 叶わぬ者
《siera》

 アレンが目を覚ますと、世界のすべてが鮮明な輪郭を持っていた。太陽の光が窓から射しこみ、いつもの冷たい石造りの部屋で、明と暗とをはっきり浮き立たせている。その光の中に、きらめくものが見えた。埃かなにかが、かすかな風で舞っているのだった。
 アレンが眠っていた石台は、太陽の暖かさでぬくもりをもち、体にかけられた毛布がとても優しく彼を包んでいた。――それも、いつもの毛布と同じだというのに。
 少年は起きあがって自分の手を見、自分の裸身を見た。体には、昨晩のことを示すように新しい痣を見つけたけれど、いつものような退廃とした倦怠感は残っておらず、彼の意識は嵐が去った後のように鮮明に晴れ渡っていた。
 昨日までの毎日であれば、目覚めても、疲労と精を絞りつくした気だるさに頭が朦朧としていた。昨晩がとりたてて他の晩より緩い責苦だったわけではないと思うのだが、それにもかかわらず、アレンの意識はかつてないほど晴れやかだった。
 なにかが、この日、違った。
 混沌とした泥濘の中から、自我が生まれ出たように、なにもかもがはっきりと見えた。
 それに城の構築も、灰色の夕暮れに沈んでおらず、壁の線のひとつひとつをしかと見ることができた。窓枠の形も、昨日まではあんなにくっきりしていなかったように思える。そうやってしばらくあたりを観察して、アレンはどうしてなのかようやく合点がいった。
(そうか、太陽の光が射しこむなんてなかったことなんだ。ずっと黄昏た世界だったじゃないか。このアルンハイムの領土は! それなのに太陽が見えるなんて、まさか――繋がっているのかもしれない、学校と!)
 雲が晴れたように、空から太陽の光が射しこんでいる。
 現世に帰れるかもしれない、そう思い当たったアレンは、いてもたってもいられずに石の寝台を飛び降りた。床は陽が当たっていなかったせいか冷たくて、その刺激すらアレンには真新しかった。恐る恐る陽の当たっている床に足を伸ばすと、そこには安堵を誘うぬくもりが宿っている。
 レナルトは、と見ると、友人は簡単に服をまとって、部屋の隅にある寝椅子カナッペで死んだように眠っていた。アレンは寝椅子の傍にある自分の服をとって音を立てないように着こんだ。それからレナルトの肩に触れようとしたけれど、そうはせずに手を引いた。
 疲労のどん底にあるレナルトを起こしたくなかった。少しでもいいから、休ませてやりたい。レナルトの冷たい美貌は、この領土へ来てやつれてしまった。彼をそれほど苦しめているのは他ならない自分だと了解していたので、アレンは声をかけることをためらったのだった。
 数日前にその気持ちを吐きだしてから、アレンもレナルトもいくらか楽になっているのを感じていたものの、アレンの心から負い目を拭い去ることはできなかった。死にたい、殺してほしい、……それでも生きたい。悪魔の領土から逃れて、家に帰りたい。アレンは未だにこの城で足掻くことを止められなかった。そしてそれができないのであれば、レナルトだけでも助けたい。
 もっとも、自分が悪魔から逃れる術が明らかでないように、レナルトを助ける手段も判明していない。しかしまだ、悪魔が隠していることがあるのではないかとアレンは思っていた。レナルトはこの領土にさまようテオフラスト教授の魂がなにがしか知っているはずだと言っている。諦めるのはまだ早いのだ。
 アレンは窓辺に身を寄せると、外を眺めた。はじめて目にする眺望が広がっている。城のすぐ下には美しい庭園が設えられていて、そのままなだらかなランドスケープ・ガーデンと水辺へと続いている。遠景はいつものようなうすぼらけの霞に包まれているが、城のはるかを囲む濃い緑の森が見えるくらいには晴れていた。
 アレンはかすかに失望した。その景色は、学園からのものではなかったからだった。
 遠景にはどこまでも黒い森が続いていて、町らしいものは見えない。帰った来たのではないかと思ったアレンのあては外れてしまった。ゲルトルートからは、この位置の窓からなら、山の麓にある町を見ることができるし、晴れていれば、遠くに走るアウトバーンの車も見えるはずだ。
 だからここはまだゲルトルートではなく、ずっと囚われていたアルンハイムの領土に違いはない。
 ちらりと背後を振りかえり、アレンはレナルトをうかがった。彼が起きだす気配はなかった。それに安堵する。
 もう少し彼を休ませたいという理由だけでレナルトを起こさなかったわけではなかった。
 彼を揺り起こしたらアレンの覚醒した意識はまた朦朧と霞んでしまうのではないか、そういう本能じみた恐怖を感じてレナルトを起こさなかったのだ。レナルトはこの城で、アレンを守ろうと躍起になっている。虐げられ、陵されるアレンは当然のように彼に縋った。そうでもしなければ、体も心もとうに壊れてしまったに違いない。握りしめてくれるレナルトの手がなければ、とうになにもかもを悪魔に譲り渡してしまっていたに違いなかった。
 気まぐれに鮮明になった意識は奇妙な恐れを感じていた。レナルトが目覚めて、彼に頼ってしまえば、また意識はかすんでしまうのではないだろうか、という得体の知れぬ恐怖にアレンはためらったのだ。この光がまたとないチャンスであるかもしれないのに、彼自身の心のために、レナルトを起こせなかった。
 ただ自由になりたかった。アルンハイムからも、そしてレナルトからも。それは愛情とか憎悪とかとはまったく違う次元の思いだった。アレンは、ただ一人の人間として歩きたかった。
 彼は窓から空を見あげた。そこには、アルンハイムの領土でいままで見ることのできなかった太陽がある。
(いったいどれほどぶりなんだろう、太陽なんて。ああ、まぶしいな……)
 そして太陽に照らされたアルンハイムの領土を眺めやる。
 この城を抜けだして、どこかまで行けるだろうか。どこまでも行ったとしても、元の世界に帰れる保証はないが、それでも行かないよりはましだ。たとえ、目の前に広がる森に終りがないのだとしても。
 いつものアレンならば、完全に萎縮してしまってそんな冒険をすることなど考えなかっただろう。だが、今日はなにかが違った。ゲルトルートにいた頃、授業を抜けだして城内を歩き回った彼の冒険心が久しぶりに頭をもたげていた。
 アレンは自らで確認するように頷くと、城の階下を目指した。
 この城の構築は、頭の中にほとんど叩きこまれている。ことさら熱心にこの異界の城の中を探索したというわけではなかったが、あのホーエン・ウラッハ城とまったく違う城ではないようで、学園の中を我が物顔で歩き回っていたアレンには見慣れた場所も多いのだった。ただの生徒と同じように、許された場所だけを行き来する学生生活を送っていたら、右も左もわからなかっただろう。だが、アレンはゲルトルートにいただれよりもこの城のことをよく知っていた。地下に当たる領域は、ゲルトルートでは埋められてしまっていた場所もあったせいで熟知しているとは言いがたいが、坑道を利用した、外の景色の中へと続く出口がどこかにあるはずだった。
 飽かず眺めた城内の青地図を思い出す。ゲルトルートとまったく同じではないが、地下通路をくぐって地上へまた登る、という構造をとっているはずだ。
 そんなことが次から次へと思いついていくのに気持ちが高揚していくのがわかった。昨日まで、こんなことは考えられなかったから、どこまでも自由になれる気がした。
 心を決めると、アレンは自信に満ち溢れたまま、階下へと足を進めていった。

 通りがかかった回廊の椅子に、白い肌の人形が腰かけていた。さすがにぎくりとしてアレンは足を止める。少女の人形はうつろな赤いガラスの瞳を動かすこともなく、黙然と佇んだままだ。
 それはいままでも何度か、悪魔と共にいるのを見かけたあの白い少女だった。白すぎる肌に、ガラス玉のような赤い眼、それにぞっとするほど冷たい手をしていることをアレンは知っていた。とはいえ彼女が何者なのかはわかっていなかった。
 目の前に立って覗きこむが、いささかも動かない。微動だにしない少女を見て、やはり生きていないのだろうか、と思った。
 するとその瞳は不意にぐるりと回り、一瞬にして動きだし、アレンを凝っと見た。
「……う、」
 その変化が唐突で、思わずうめき声を上げてあとずさってしまう。少女の人形は愛らしい顔立ちをしていたが、その膚の色は人間にしてはあまりにも不自然だし、仕種も尋常ではなかった。夜の間だけ動く悪魔の人形なのかと思ったのだが、いま動いたということはそうではないのだろう。
 彼女はアレンを認め、目を細めた。
「なにをしておるか?」
 アレンは顔を歪めながら答えた。
「君こそ――」
「問いは問いの答にならぬぞ、イグニシウス。このような深い所まで、そなたが来るのは珍しいことではないか。なにか探しておるのか?」
 馬鹿正直に答えるいわれはない。相手はアルンハイムのしもべなのだ。彼女がこんなところでなにをしていたのか気になっていたが、人形にその答えがあるとも限らない。それで、アレンは自分の目的に立ち返ることにした。この城を出る道があるのならば知りたい。この人形が、知らないはずはない。
「外に出たいんだ」
オウサー? 外とはいずこのことを言っておるのじゃ」
「元の世界だよ」
 人形は笑いはしなかったが、声には嘲りをにじませて言った。
「愚かな、それでどうするつもりじゃ? アルンハイムの君からは逃れることはあたわぬぞ」
 いくら悪魔の力が強大だとは言え、逃げようとすることは理屈ではないのだ。アレンはその警句に返事をしなかった。
「空に太陽が出ている。いままでこんなことはなかっただろう。あれはなにかのしるしなのか? あの太陽は、俺たちの世界のものではないのか?」
「そうか、そなたはあれを見たか」
 少女はアレンの言ったものに合点したらしい。
「そなたはあれを太陽と思うたか。されども残念なことに、あれは太陽ではない。そなたの世界で見かけたいかなるものでもない。あれは人の世では目に見えぬもの、魂じゃ」
「魂、だって?」
「そう、あれは魂じゃ。そなたも知っておるかもしれんのう。あれはゲルトルートの魂じゃ。わらわがゲルトルートのためにアルンハイムの君を喚び、ゲルトルートはアルンハイムの君と契約を交わした。あれは決して陥ちることのない城を造ることをアルンハイムの君に求めた。アルンハイムの君はその願いを叶え、ゲルトルートの魂はアルンハイムの君のものとなったのじゃ」
 知った名前が出て来るとは思わず、アレンは戸惑う。知っているといっても、もちろん知識に過ぎないものだ。
 この城でゲルトルートといえば、ゲルトルート・フォン・ウラッハのことだろう。女ながらホーエン・ウラッハ城の初代城主となった人物だ。それを知っている少女は、いつからこの城にいたのか。ゲルトルート・フォン・ウラッハが城を築いたのは十六世紀のはずだから、少なくとも五百年にはなる。
 少女はアレンの様子を見て厳しい口調で嘲笑った。
「そなたはこの世界の成り立ちさえ知らぬのだな! このアルンハイムの領土は、長い長い年月をかけ、我が君が虚無から創りあげた世界なのじゃ。アルンハイムの君と契約を交わし、願いを叶えて至福にある魂たちを材料に、アルンハイムの君が創られたのじゃ。あの太陽だけではない、この城も、木々も、すべてが魂で出来ておるのじゃ!」
 アレンは思わず言葉を返し損ねた。悪魔に魂を奪われたらどうなるのだろうかと思っていたのだが、こんなところでその答えが得られるとは思っていなかった。自分の魂が、この陰鬱な世界を創るなにかになる――想像ができなかった。アレンは胸の内の困惑を押し殺して、少女に応えた。
「ならどうして、あの太陽はいままで見えなかったんだ。ずいぶんここにいるけれど、あんなものは見たことがない!」
「あれは気難しい魂でのう。庭が完成しなければ、アルンハイムの君にもおいそれとは従わぬのじゃろう。いずれはこの世界の太陽になるであろうが。いつも顔を出すとは限らぬのよ」
「……庭?」
「そう、庭じゃ。アルンハイムの君がこの領土に創ろうとしておるのは庭なのじゃ。楽園に似せてかの君が創られておる庭園よ」
 アレンははっとした。人形が言っているのは、テオフラストの亡霊が言ったという花園のことに違いない。アレンはテオフラストの亡霊とは出会ってないが、レナルトがここに着たばかりのときに聞いたのだという。アルンハイムに命じられるままアレンを抱いた教授の姿を知っているだけに、アレンは半信半疑だったが、そこならば二人の救われる道を示すことができる、とテオフラストは言った。長いこと探して辿りつけず、テオフラストが言ったことそのものが悪魔の罠のひとつなのではないかと思っていた。
 アレンの気を知ってか知らずか、少女は続けた。
「ゲルトルートが出ておるのならば、窓から庭が見えたのではないのか? あの至高の美を持つ風景庭園ラントシャフト・ガルテンが。アルンハイムの君が手に入れた魂はすべて庭となる。わらわも、そなたも、いずれ願いが叶った暁にはあの庭の花になり、あるいは鳥になるのじゃ。なにになるかを知っておるのはアルンハイムの君だけよ。尤もイグニシウス、おまえは始めから決まっておるがのう」
 少女の言葉の途中で、アレンは眉をひそめた。彼女の言葉が妙に引っかかったのだ。「わらわもそなたも、」彼女はそう言った。
 ではこの少女は、人間なのだ。人形に、悪魔へ差しだす魂があるはずはない。目の前の白い顔を見凝め、アレンはぞっとする。彼女を人間だとはとうてい思えなかった。
「どうした、イグニシウスよ?」
「君は……アルンハイムと契約しているのか」
「おお、そうじゃ。わらわをなんだと思っておった? わらわもかつては人として、そなたが生まれたのと同じ世界で生きておった。太陽の光を浴び、血を流せば死ぬ肉体を引きずりながら生きていたものよ。無論、はるか昔のことではあるがのう。わらわの願いはいまだ叶えられぬ。わらわの肉体は蝋のように白くなり、ただ時を待っておるのみじゃ」
 はるか昔とはいつなのだろう。もしもレナルトがアレンのことを愛することがないのであれば、アレンも彼女のようにこのアルンハイムの領土で生き続けて行くのだろうか? 五百年も、千年も、あるいは世界が滅びるまで、叶わない願いだけを抱いて生き続けると言うのだろうか?
 それほどの間、叶わない願いとはなんなのだろうとアレンは怪しんだ。どれほど途方もない願いだというのだろう。いままでなんの意志もないようも思えていた不気味な白い顔に貪婪な欲望を見た気がして、アレンは忌々しく少女をにらんだ。
「君はなにを願ったんだ、あの悪魔に?」
「聞いてどうするのじゃ? そなたにはどうしようもないことよ」
「それはそうだけど」
「まあよい、決して秘密ではないのだから。
 わらわはただ一度のくちづけを求めてアルンハイムの君と契約を交わした。アルンハイムの君に愛情のこもったくちづけをただ一度だけもらうこと。それが、わらわの望みじゃ。太陽を忘れるほど生きたが、まだわらわの願いは叶わぬ。
 それさえ叶えば、わらわはあの庭で鳥になろう、風になろう。至福の瞬間で永遠に時を止めよう。イグニシウス、そなたはあの庭を見るべきじゃ。どれほどあそこに棲まう魂が幸福か、知るべきじゃ。わらわはもはや区別がつかぬ。われわはアルンハイムの君の唇を望んでおるのか? それとも、あの庭の何物かになることを望んでおるのか?」
 テオフラスト教授もまた、その庭にいるはずだ。テオフラストの願いをアレンは知らないが、想像することはできる。彼は、もう一度死んだ妻と会うことを願ったに違いない。そしてその願いは叶えられ、テオフラストの魂はその庭園にあるというのだろうか。
 アレンは唇をかみしめた。アレンの願いは、どれほどのあいだ叶えないでいることができるのだろうか? アレンが願いを叶えられたとき、レナルトはどうなるのだろうか?
(俺はアルンハイムの庭の魂になる。レナルトは、俺を愛したレナルトはどうなるんだ?)
 あまりにも怖くて、アレンはその想像をやめた。ここから逃げだすことだけを考えよう。せめて、今日だけは。それにいまだもって、レナルトがアレンのことを好きになることなどありえない気がしていた。
「その庭へは、どうしたら行けるんだ?」
「この廊下を奥まで進み、つきあたった階段を降り続けるがよい。いずれ、この城の最下層へと到る。そうしてから右手に伸びる通路を進むと、階段が見えて来る。それを登り、外に出ればすぐにある」
 少女に示された廊下は、真暗く、蝋燭のひとつもない。しかし、そんなことに怯えるつもりはなかった。まだ早い時間なのだ、少なくともアルンハイムは現れない。
「ありがとう。……そう言えば、君はなんていう名前なんだ?」
 アレンは礼を言って歩きだそうとして、そのことに気づいた。少女は首を振る。
「それはアルンハイムの君だけが知っておる」
 少女は謎めいて笑い、血のように赤い瞳を揺らした。はじめて見た笑い顔だったが、気味が悪かった。彼女はかつて人間だったはずだが、もうとてもそうとは思えない。何百年もこの呪われた領土にいれば、アレンもあんなふうになってしまうのだろうか。
 アルンハイムのくちづけを求めてそれだけのためにあんなふうになってしまえるのか。
 アレンは毎夜のアルンハイムのくちづけを思い出してぞっとした。そして、それはアルンハイムのくちづけではなくレナルトのくちづけであることを悟る。
 彼女が求めているのは、アルンハイムのくちづけなのだ。彼女はアルンハイムに恋をしている。その恋のために、人としてのすべてを捨ててここにいるのだ。その想いをくだらないということはできない。アレンもまた、自分の胸の中にある、レナルトへの炎のためにここにいる。
 アルンハイムは愛しい者の姿であらわれる悪魔だ。もしかすると、彼女には悪魔アルンハイムの本当の姿が見えているのかもしれなかった。アレンにはレナルトに見え、レナルトにはのっぺらぼうの仮面に見えているが、悪魔の真の姿に彼女は恋をしているのかもしれない。
 彼女には悪魔がどんな風に見えているのだろう、アレンはそれが気に懸かった。
 少女の言葉どおりに歩いていくと、すぐに地上へと出た。アレンは唖然として、足を止める。
 そこには、一面の楽園が広がっていた――

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