第三章 2nd. ランドスケープ・ガーデン
《die landschaft-garten》

 レナルトは夢を見ていた。
 冷たく穏やかな池の底は、息苦しくもなく、とても心地よい。その泥の褥の中でレナルトは眠っていた。和やかな陽の光は池の水を明るくして、ゆらゆらと水の中で揺れている。指先に、体に、池に花を咲かせる蓮の根がやんわり絡みついて来る。それはレナルトのためにしつらえられた至福の褥であって、この上もなく心地いい。
 その閑かな池の底で眠っていると、白い手に抱き起こされた。水の冷たさがその手の暖かさを際立てる。やわらかくてしなやかな腕は、水の中でさえ絹のようにすべすべとした触り心地だった。その腕の中に頭をもたれかけて、レナルトは目を覚ました……夢の中で。
 起きて、とささやく声は少し低いけれどあまやかな少女のものだ。
 池の底の眠りは静かで心地よく、魂まで溶けていきそうな気がした。けれどいま彼を抱き起こすこの腕の中は、あたたかくいいにおいがして、池の水よりもレナルトの心を動かす。
 少女の声に応じて、レナルトは身を起こした。
 水の中から立ちあがると、太陽が東洋じみた湖水風景に暖かい光を投げている。レナルトを起こした少女は、彼の目の前にいた。半身を蓮池にひたしていて、白い肌はなまめかしく濡れている。首元から胸のほうへと落ちる雫にレナルトは目を奪われた。少女の長い黒髪から落ちる雫は、足元の蓮の葉の上で撥ねる。
 彼女の体に回したレナルトの腕には、水を含んで重い彼女の髪がまきついて、レナルトを放さなかった。心のすべてを縛られているようだった。それは不快ではなく、このままこの腕に抱きこまれたまま、少女とひとつになってしまいという欲望を、少年に抱かせた。
 湖面は蓮の葉の緑に覆われ、どこまでもどこまでも二人きりだった。彼ら二人の恋人を煩わすものはなにもない。水から上がるべき岸辺さえ、ぐるりと見回しても見えなかった。ところどころに屹立する蓮華の花びらは、少女の頬の赤味と同じ色をしている。
 レナルト、と呼んで彼女は少年の腕を引く。その仕草の愛らしさに彼は、少女を抱き寄せてその唇にくちづけをした。
 蓮華色の唇は、甘い蓮の実の味がする。
 少女はまた、レナルト、と彼を呼ぶ。それに応えてレナルトも少女の名を呼んだ。
「……アレン」
 呼ぶと、少女は幸せそうに笑った。頬に浮かぶえくぼに彼は見蕩れた。彼女は蓮華色の唇を開いて囁く。
「あなたは知らなかったでしょう。わたしがあなたを見ていたことを。わたしは魔法の鏡で、あなたをずっと見凝めていたの」
「降りて来たのか、あの塔の上から? あなたの命は呪いがかけられているのに」
 湖岸には蓮の葉を舟にしてその上に横たわり流れ着いたシャロットの姫君。
 少女から応えはなかった。そのことに胸騒ぎを覚え、レナルトは夢の中から目覚めた。

 部屋にいなかったアレンを探して、レナルトは城の中を下へ下へと降った。下を探すのに理由があったわけではない。ただ、アレンを探してさまよっているうちに、窓から城の麓に緑の庭園のようなものが見えたのだ。いままで霞の中に沈んで目に入ることのなかったものだということはわかった。なぜか今日は、太陽の光にも似た明かりが天から射しこみ、霧のむこうを透かしていて、その庭園を見ることができた。それに気がついたレナルトもやはり、地下を目指したのだった。
 アレンを探そうにも目指すものがなく、その庭に行こうと思った。もちろん、レナルトの脳裏には、以前テオフラストに言われた庭園のことが気に懸かっていたが、それを過度に期待するのは恐ろしかった。
(アレン……どこなんだ?)
 友人を探しながら歩いているレナルトだったが、その足元はいささか夢うつつのままだ。先ほど見た夢を、彼は忘れるともなく憶えていた。まさに夢が夢であるからこその淡くはかない記憶。
 はっきりと夢を憶えているわけではなかったが、ひどく気持ちのいい夢だったことだけを憶えていた。
(なんの夢だったろう、あれは……)
 蓮の花が頭を伸ばすオリエントの池の夢。
 しかし、暗くじっとりと湿った城の中を、アレンを求めて歩いているうちにその感覚もが薄れていった。仕方なく、レナルトは夢を追うことをやめ、確かな足取りでアレンを探した。
「アレン!」
 回廊に声ばかりが響く。アレンの答えはなかった。
 よもや、この城で今更なにか異変と言えることがあるとは思われない。常軌を逸したことばかり身に降りかかって来てはいたが、それはひとつの秩序から外れることはなかったのだ。この昼と呼べない薄暮の時間においては、悪魔はレナルトにもアレンにも手を出して来ない。
 だが、レナルトが目を覚まして傍らにアレンがいなかったことははじめてのように思う。なにかがあったのか、それとも自分からレナルトの傍を離れたのだろうか。アレンが先に目を覚ましていることさえ珍しい、と思った。
 さまよいながら歩いているうちに、まぶしい戸外に出た。暗かった城を抜けて、唐突に出たそこは鬱蒼と緑の生い茂る庭園だった。まるで違う世界に放り投げられたように城とは異なる景色だった。細い小路ペーヴメントが花々と木々の間を縫っている。レナルトは、緑の中へ足を踏み入れた。
 花々の作る生きた壁を潜り抜け、レナルトはひらけた場所に出た。見あげれば、小鳥が頭上を飛びまわり、うたを歌っている。明るい光が庭園に射しこみ、柔らかな風に花びらが揺れている。色とりどりの草花が、渦を巻くようにその空間を彩っていた。ありとあらゆる色の花が花壇に植えられていた。
 いままで彼らを囲んでいたアルンハイムの領土の薄暗さとかけ離れたその景色に、レナルトは戸惑いながら、花で出来た拱門をくぐってゆく。いつしか、白く磨かれた大理石の東屋に辿り着いた。東屋から遠景を眺めたレナルトは、息を飲んだ。
 東屋はなだらかな丘の上にあり、眼下には壮大なランドスケープ・ガーデンが広がっている。緑の芝が丘陵を覆い、その真ん中を、銀糸のようにきらめく小川が流れてゆく。小川は、レナルトのいる東屋の真下あたりから流れだしているのだろう。丘の麓には黄色い可憐な花の咲く野が広がっている。僅かな風に囁きあうように愛らしく震え、間を色とりどりの蝶が舞っている。
 その野の辺から小道が始まっていて、レナルトから見て右手にある、糸杉の直立した森の中へと消えていく。そのむこうにはやはり小高い丘があり、ここと同じような東屋があるのが見えた。丘の斜面は白い花に埋め尽くされている。その下ではとうとう小川が流れ着き、美しい湖を作っていた。湖面はここからでも、太陽に光に照らされて七色に輝いていた。大きな湖になっているらしく、湖岸のむこうには霞んだ森の木立があるのがわかるだけだ。
 小川が湖に注ぎこむすぐ手前には、古い塔がひとつ建っていて、テニスンが歌うシャロットの塔のようだった。足元には鵞鳥が群れをなして集っている。レナルトの左手には青い芝地が広がり、それは湖の奥に広がる桜色の森へと続いている。
 空には数羽の真白い翼の鳥が飛んでいた。コウノトリのようだ。鳥の羽根のはばたきが、風の中をすり抜けてゆく。
 これが霧のむこうに隠されていた庭園だった。その風景には限りがない。湖がよく見えないのでその傍まで行きたくなった。湖までたどりついたら、また次へと進みたくなるのだろう。
 はたと背後を見れば、断崖の上に古城が建っているのが目に入った。人を拒む険しい山に建つ城は、壮麗な主塔を持っている。周りには松の木がまばらに岩肌に生えていて、太陽に似た光に城の窓はきらきらと輝いていた。どんな宗教画よりも含意に富んだ光景だった。もちろんそれは、レナルトたちが毎日を過ごしている、ゲルトルートに似て非なるあの城だ。
 こうして見ると、ウラッハ城はランドスケープ・ガーデンを構成する素材のひとつなのがよくわかる。城のむこうにも、霊妙な風景がどこまでも続いているのが見えた。
 なんと美しいんだろう、レナルトはただ驚嘆して佇んだ。これは神の創ったランドスケープ・ガーデンに違いない。風景画家が絵画の中に描こうとして描き尽くせなかった、完全なるランドスケープ・ガーデンだ。
 小川沿いに歩きだそうとしたレナルトは、はたと傍に人の気配を感じて踏みとどまった。振りむくと、東屋にはいつの間にか、一人の男が佇んでいた。この領土に来てから、レナルトはずっと彼を探していた。深い知性を感じさせる灰色の瞳は、まるで少年のようにすがすがしく、美しいランドスケープ・ガーデンを見ている。彼にとっても、この景色はどうしようもないほど美しく見えているのだろう。
「テオフラスト教授」
 レナルトが呼ぶと、そのときはじめて、静止画が動きだすように突然テオフラストは口を開いた。
「レナルト、見なさい。この美しい庭を。私はこの美しい庭の一部なのだ。願いを叶えられたことで私は幸福だが、この庭の一部であることにまして幸せなことがあるだろうか?」
 それはレナルトが聞きたい言葉ではなかったが、レナルトは否定できなかった。確かに、造園のことなどレナルトはなにも知らないが、この庭の美しさは言いようがない。人がどれほど技を凝らしても、この悪魔の庭園を越えることはできまい。
「アルンハイムは手に入れた魂をこの庭園の一部にする。なぜこの庭がこれほど美しいか知っているか、レナルト。魂は、その願いを叶えられて幸福の極みにあるのだ。その魂で出来た庭が、美しくないはずがない。それゆえにアルンハイムは、惜しみなく我らの願いを叶えるのだ。ここでなら私は永遠に、月の光のように美しいエレオノーラと共にある。永遠に、永遠にだ。だからここは悪魔に創られた楽園でも、エデンに勝るとも劣らぬ美しさなのだ!
 ところで、ランドスケープ・ガーデンと、まったく同じ景色を描いた風景画を比べたときに、当然だがランドスケープ・ガーデンのほうが美しいものだろう。なにしろ、それは生きているのだからね。しかし庭園に生える植物は移ろいゆく定めの命であるから、冬が来れば枯れるだろうし、春の最中でさえ、青い葉は虫に食われてしまうだろう。そういった瑕疵を排除した完璧な美しさは、実際のランドスケープ・ガーデンでは叶えられない。どれほど苦労して庭園に尽くそうとも無駄なことだ。だからこそ風景画は、生あるランドスケープ・ガーデンを超越することが出来る。ロマン主義のカスパー・ダヴィド・フリードリヒの描いた光景は非常に美しいが、どれも、実際には存在しない風景だ。いくつかの地点のスケッチを合成することで完璧な風景を描いているのだよ。さてこうなると、ランドスケープ・ガーデンと風景画のどちらがより芸術性の高いものであるのだろうか。どちらが、よりミューズの御心にそぐうものなのか。これは人によってそれぞれだろう。幻だが完璧な光景を望む者もいるだろうし、瑕疵はあっても本物の眺望を好む者もいるだろう。
 この庭園の存在する意義はそこにあるのだ、レナルト。アルンハイムの庭園は、生きた風景であるが、アルンハイムが完璧さを追求したランドスケープ・ガーデンなのだ。時がなく、枯れることのない植物で出来ているから、アルンハイムが定めた完璧な美しさが損なわれるということはないのだ。なだらかな稜線が、一部分だけ無粋な岩山に損なわれることもないのだ。造園家アルンハイムの手腕の確かさはこの景色を見れば明らかだろう。アルンハイムはかつてのエデンを見たことがあるのだという。しかしそれを模したとて、そのエデンそのものを再建しているわけではなかろう。これはあくまでも造園家アルンハイムの手になる楽園で、アルンハイムの創意を含んだものなのだ」
 そう言ってから、テオフラスト教授はかつてと変わらぬ優しいまなざしでレナルトを見た。
「私がここに訪れた後も、幾度となく新しい魂が加わった。だが私は花となったまま動かなかったのだ。我々は幸福なのだ」
 レナルトは困惑した。生きてはいないこの魂が、なにを言おうとしているのか少しも予想がつかなかった。テオフラストはレナルトを見ているが、やはりそれは投射された映像が話しかけて来るようで、どこか齟齬がある。明るい時刻であったし、亡霊だとは思わなかったが、そこに実体がないことだけは膚で感じていた。
「しかし君のように、望まずにこの世界にまぎれこんだ者が狂って行くのを見るのは忍びない――」
 そう言われてレナルトははっとして、必死で叫んだ。
「教授は、ここから逃れる術を知っていらっしゃるのですか。なにか教えられる、と言っていませんでしたか!」
「私が示せるのは、ひとつだけ、可能性だ」
 レナルトは落胆を隠さずに師を見返した。ここまで来て、テオフラストに会いさえすればすぐにも帰れると思っていたのだ。だが、そんな簡単なことなら、いままでだってこれほど苦しみはしなかっただろう。
「よしんばこの領土から逃れたとしても、アルンハイムは君らを追い続けるだろう。アレンはアルンハイムと契約を交わしてしまったのだから。もう一度ここへと引き戻されるのがおちだ。だが、そうさせない方法がひとつだけある。悪魔を倒すのだ。それしかない」
 レナルトはテオフラストの言葉に目をむいた。
「悪魔を倒す?」
「そうとも、レナルト」
「どうやって?」
「アルンハイムは、魂を眼に宿している。それを抉るのだ。そうすれば悪魔は滅びる。だが間違えてはならない。魂の宿った瞳は片側だけだ」
「どちらの眼なんです?」
「魂の宿った眼は赤いそうだ。私がかつて調べたときには、錬金術師はそう記していた」
 レナルトは困惑した。レナルトの知るアルンハイムは、のっぺらぼうの白い顔をしているのだ。存在もしない瞳の色など認識できるはずがない。アレンには、悪魔はレナルトと瓜二つの姿に見えているという。瞳の色が違うなどと聞いたことはないから、アレンにもわからないだろう。
「それが右なのか左なのか、私も知らない」
「そんな」
「わかれば、悪魔を滅ぼすまでいかずとも、脅かすことはできるだろう。ゲルトルート・フォン・ウラッハはそれを知っていた」
「ゲルトルート・フォン・ウラッハ?」
「そうとも。あの太陽のひかり、あれがゲルトルート・フォン・ウラッハなのだ。知っていたからこそ彼女は悪魔アルンハイムを従えていることができた。いまも、アルンハイムの完全な支配を受けつけず、気まぐれに世界を照らしている」
「じゃあ、ゲルトルート・フォン・ウラッハはどうやって知ったんです。俺にはアルンハイムの顔はのっぺらぼうに見えるんです。アレンには、俺の姿に。どうすれば赤い眼が右か左か、わかるって言うんです?」
「おそらく、それが見えたのはウラッハ女伯爵ではなく、あの部屋の錬金術師なのだ」
「ゲルトルート・フォン・ウラッハに仕えた錬金術師ですか」
「ああ」
「でもどうやって……」
「訊けばいいのだ。この城にいるのだろう」
 その言葉を最後に、テオフラストの姿は消えていた。東屋の中に、レナルトは唐突に一人で立っている。妙な胸騒ぎがした。いくらあたりを見回しても、テオフラストの姿はない。ただ、なにか花の名残のような香りが、あたりに漂っていた。
「教授?」
 まだあたりは明るく、悪魔が動きだす時間ではない。
 東屋を出て庭園を歩き始めたレナルトは、花の拱門のむこうから、草地を進む蛇のような軽さで歩いている少女の姿を目にとめた。しばしば城の中で、アルンハイムと共に見かける白い肌の少女だ。生きているとも、作りものとも言えない肌と、赤い瞳をしている。顔立ちは美しいのだが、失われた色素のせいで人をぞっとさせる。
 少女は美しい黄色の水仙ナルチスを手にしていた。少女が近寄ると、甘い香りがレナルトの鼻に届く。さきほど、東屋で嗅いだ香りと同じだった。
(……まさか)
 レナルトは目をみはって足を止め、少女はレナルトにむかって口を開いた。
「レナルト、そなたはイグニシウスを不幸じゃと思うか? どうじゃろう。この花園で花となることのなにが不幸せか、わらわにはわからぬよ。ここは至福の花園じゃ。人間がはるか過去に、神によって放逐されたあの花園のかわりなのじゃ」
 もちろん、レナルトに不幸だと言い切ることはできなかった。そうでなければ、アレンがあんな憐れな瞳でレナルトを見凝めて来るだろうか? 彼はただ、レナルトの想いを望んでいて、そしてまったく別の恐怖として、ただ魂の行く末を恐れているだけなのだ。恐れているのは、悪魔に魂を持っていかれることで、レナルトに愛されることでは、決してないのだ。テオフラストでさえ、ここに来たことを悔いていなかった。
 しかし、だからと言ってここまで来て一人で帰ることには頷けない。
「アレンをアルンハイムには渡さない」
「その友情! それこそがイグニシウスを苦しめておると言うのに。
 そなたが帰りたい、と望むことはわかる。しかし、アレンも同じように望むとは限らぬだろう。アルンハイムの君は、そなたを帰すことはしてくださるじゃろう。あの方に必要なのはイグニシウスの魂だけなのだから。望めばよい。アルンハイムの君に、帰りたいと望めばよいのじゃ」
「そして、いつか俺もこの花園の花になると言うわけか」
「それでも、そなたは元の暮らしに帰ることができよう。そして平穏な人生を過ごすとよい。いつかそなたが老いて死んだとき、そなたの魂はアルンハイムの君のものとなる。それは必要かも知れぬぞ。なにしろ、わらわが花を一本手折ってしまったのだからのう」
 そう言って、少女は水仙の香りを嗅いだ。その水仙はテオフラストの魂なのだろう。レナルトは目を逸らした。
「どうして、テオフラスト教授を……」
「アルンハイムの君の魂――」
 少女は微笑みながら、続けた。
「それはとても大切なことじゃ。簡単に喋らせるわけにはいかぬ。これほど美しい花だったものを、惜しいことじゃ」
 レナルトは頭を振る。テオフラストが生きていたと思っていたわけではないが、彼女の細い指に摘み取られ、存在しなくなってしまったと知るのは衝撃だった。それも、レナルトたちを救うためにしたことが原因だとあれば。
 錬金術師に訊けとテオフラストは示唆したが、その錬金術師はどこにいるというのだろう。この城で、自分たちの他に生きている人間を見たこともないのだ。錬金術師もテオフラストと同じように花になっていると言うのだろうか? 錬金術師をこの膨大な数の花が咲き誇る庭園のどこから見いだせばいいというのだろう。
 レナルトは青ざめて、呆然と立ち尽くした。
「……レナルト?」
 そのとき、湖の方角から上がって来たアレンが、レナルトを見つけて歩み寄って来た。レナルトが起きる前に花園まで来ていたのだろう。
「おまえも、降りて来たんだな。悪い、俺のこと探しただろう」
 レナルトの傍に立ったアレンは、ようやくあの少女がいるのを目にしてはっとしたようだが、恐れてはいない。
「なにかあったのか」
 テオフラストが摘まれてしまったことを口にできなかった。テオフラストが花を摘み取られ、もうこの世界にすらいないということは、あまりにも残酷なことだったし、どう取り繕うとしても、少女は笑うに違いない。
「どうしたんだよ、変だぞ」
 アレンは重ねて、尋ねて来る。レナルトはなにも言えないまま、少女の持つ水仙に目を移した。
「……その花は?」
 アレンの声に、少女はやはり笑った。
「言ってやらぬのか、レナルト?」
「いったいなにが……」
「青ざめて哀れなことじゃ、レナルト。そなたには言えぬのか。この美しい花がだれの魂か、言えぬのか? そなたらの大切な師であろうが!」
 レナルトは説明しなかったが、アレンはどういうことか合点したようだった。この花園が魂で出来ているということを、アレンも知っていたらしい。
「それは、テオフラスト教授なのか。どうして。君が摘んだのか?」
 少女は頷き、滑るような足取りでレナルトの前に立つと、白く冷たい手でレナルトに水仙を握らせた。レナルトは呆然と、手の中で香りを放つ花を見る。唯一の頼りであったテオフラストは掌にあるが、もう喋ることはないのだろう。錬金術師に訊けばいいと言い残していたが、錬金術師がどこにいるのか、わからないままだった。それに、この花園の中から錬金術師を探しだしたとしても、いまと同じように花を摘まれてしまうのではないか。
「どうして」
 アレンは愕然としてわけを尋ねる。無論、少女は応えない。
 アレンはまっすぐにレナルトを見凝めて来る。その激しさに、レナルトは戸惑った。アレンの顔つきがいつもと違う。昔、学園にいた頃のアレンのようだった。絶望して、夢の中をさまよい、怯えていたアレンではない。いまはレナルトよりもアレンの方が溌剌としていた。
 気圧されたように、レナルトは口を開いた。
「テオフラスト教授は俺に悪魔の魂の在り処を教えようとしてくれていた。悪魔の右眼か左眼か、どちらかにアルンハイムの魂がある。それさえわかれば、アルンハイムを従わせることができる。けど、知っているのは錬金術師だけだ」
「錬金術師? ゲルトルートの?」
「ああ」
「どうして、錬金術師が?」
「錬金術師にはアルンハイムの本当の姿が見えていたって、教授が」
 レナルトがそう言うと、アレンは血相を変えた。そして白い少女を見凝めると、叫ぶ。
「君か。君が錬金術師なのか! あの本を書いたのは君なのか!」
 少女は微笑んで頷く。
「ずいぶんと昔のことじゃのう」
 アレンがなぜそんなことを叫んだのはわからなかったが、思いもよらない事実だった。中世の錬金術師に対するイメージから、司祭崩れの男なのだろうとばかり考えていたのだ。レナルトたちと歳も変わらない少女が錬金術師だとは考えてもみなかった。
 確かに、悪魔は昼の時間には動かない。まだ夕暮れには遠く、アルンハイムですら動かないのにその手下である少女が動けているのはなぜなのか、彼女が悪魔ではなく人間なのだと考えれば合点がいく。
「それなら知ってるはずだ。アルンハイムの赤い眼は右なのか、左なのか!」
 アレンに続いて問いかけたレナルトに、少女はまた笑った。
「レナルト、わらわがなぜこの花を摘んだと思うておるのじゃ? それなのにわらわが、そなたにそれを教えると思うのか?
 そなたにできることは多くない、レナルト。アルンハイムの君に願うがよかろう。かつての世界に、帰りたいと。そして心からイグニシウスを愛してやることじゃ。友人としてではなく、男として! 恋人として! それがイグニシウスを救う道じゃ」
 呆然とする二人を置き去りに、少女は城のほうへと踵を返した。
 たったひとつの道もこれで断たれた。もはやもとの世界に返る可能性は消えうせた。
 花園の馥郁としたにおいに耐えられず、どちらとももなく東屋へと足をむける。湖から涼やかな風が吹いて来て、まとわりつくにおいをどこかへさらって行った。
 だが、掌にはまだ瑞々しい水仙の花がある。あの少女が言うように、この世界から逃れるにはアルンハイムに願うほかに手段はないというのか。
「ここがやっぱり、テオフラスト教授の言っていた庭園だったんだな。俺もそうかと思って、ずいぶん歩いてたんだ」
「テオフラスト教授は、俺たちがここから逃げだすには悪魔を倒すしかないと言った。悪魔の魂はあいつの眼に宿っていて、その眼を抉れば、俺たちは逃げることができるかもしれないって。けど、その眼が右か左かわからない。魂が宿っている眼は赤いそうなんだが、俺たちじゃあ、アルンハイムの眼のどちらが赤いかなんてわからないだろう。錬金術師だったら知っているはずだと教えてくれたんだが……」
「それが、テオフラスト教授なんだな。本当に」
 水仙を見凝めてアレンが呟く。レナルトが頷くと、アレンは鞭打たれたように体を引きつらせ、それからレナルトに抱きついた。押し殺した涙が耳元から聞こえる。友人の肩を抱きしめると、レナルトも泣き声を上げた。

 城に戻ったアレンとレナルトは、どうにかして水仙を活けた。それでどうにかなるとは思えなかったが、時のないこの城のこと、テオフラストの魂をわずかなりとも引き止めることはできるかもしれない。
「とにかく、錬金術師から話を聞かないといけないよな」
 いつになく生気に満ちたアレンは、どうにかして錬金術師から眼の色を聞きだせないものかと熱く語った。レナルトのほうが却って打ちのめされていて、気弱げにアレンの言葉に首を振った。
「教えるはずがないだろう」
「もういい」
 痺れを切らしたアレンは、いらだたしげに部屋を出て行った。彼は意識がはっきりしているうちに少しでもなにかがほしくて仕方なかった。真夜中になれば、また背徳に絡めとられて手も足も出せなくなるからだ。
 レナルトは、出て行くアレンを呼び止めなかった。
 やがて宵闇の時間が迫る。城を巡る石畳には松明が灯り、レナルトの佇む窓辺からは、遠くから靴音を響かせて近づいて来る悪魔の影が見えた。レナルトにとって顔のない悪魔が、ようやく戻って来たのだった。
 眼も鼻も口さえないのに、どうやって眼の色を知ればいいというのだろうか。
 レナルトは陰鬱な気持ちで窓外を見ていた。ぼんやりと、闇と松明の明かりだけを目にして、どうすべきか葛藤し続けていた。二人が無事に逃れる方法はアルンハイムの眼を抉るというひとつしかない。しかしそれが無理であれば、錬金術師の言うとおり、レナルトだけでもこの世界から逃れるべきなのか。
 だが、ふと悪魔の影がなにか見憶えのある姿に変生したのが視界の片隅に映り、レナルトは窓から身を乗りだした。石畳の上には、ゲルトルートの制服を着た少年が立っている。アルンハイムだと思ったのは間違いで、歩いて来たのはアレンだったのかとさえ思ったが、そうではない。それが本物のアレンでないことは、表情を見てすぐにわかった。
 残酷な笑みを浮かべて、なにもかもを知っているように、悪魔アルンハイムはレナルトを見あげている。レナルトは震える腕で窓枠にしがみつき、いますぐにそこから墜死したい衝動に駆られた。
(そんな、まさか、)
 悪魔の姿がアレンに見えるということはたった一つの事実を示している。アレンの魂が、アルンハイムのものになるということだ。
 一瞬の後に、その姿はいつもの顔のない悪魔のものに戻ったのだが、レナルトは時間がないことを知ってしまった。テオフラストはもはやこの世界におらず、悪魔の眼はどちらが赤いのか、わからないままだ。
 そしてレナルトは、アレンに恋をし始めていた。

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