第三章 3rd. 変生
《die veraenderung》

 自分の気持ちが変化し始めているのか、それともとうとう狂って来たのか、レナルトには判断がつけられないでいた。アルンハイムがただアレンに見えるようになって来た、というのであればまだ簡単だった。アレンを悪魔に渡してしまうような想いはなんとしてでも抑えようとしただろう。
 けれど、違うのだ。レナルトの前に現れるとき、悪魔は白い仮面のままであることもあったし、黒い短髪の少年の姿をしていることもあった。なによりレナルトを混乱させたのは、悪魔がときにアレンと同じ顔をした、けれど髪の長い少女の姿をしていることだった。
 それは見知らぬ少女だ。顔はアレンと同じだから、知っている。けれど、その腕は細かったし、胸元には目立たないけれど丸みを帯びたふくらみがある。黒檀のような黒髪で、腰に届くほど長い。見知らぬ少女だったが、心当たりはあった。
 レナルトがゲルトルートの北塔に貼りつけていた、ウォーターハウスの『シャロットの姫君』だ。そのままだというわけではない。ウォーターハウスの描くレイディ・オブ・シャロットはアレンと似たような広い額をしていたけれど、こぶりで上をむいた鼻と、厚い唇を持っている。アレンの唇はどちらかといえば薄いし、彼女と似ているわけではない。
 だがそれはレナルトが求めていたシャロットの姫君だ。
 白い悪魔の姿が、絵の具で塗りつぶされるように黒い色を帯びると、レナルトはぞっとして身を竦める。悪魔はどこまで気づいているのか、そんなレナルトを見て笑った。それもアレンと同じ顔で。
 いままではアルンハイムが笑う、ということを理解できなかったのだが、悪魔が顔を持つようになったことで、その微笑みを目にできるようになった。おそらくアレンは、同じように微笑むレナルトの顔を、悪魔の顔の上に見ているのだろう。レナルトには、どうやっても作ることのできない顔だ。レナルトが見ているアルンハイムの微笑みも、アレンには作ることのできない笑みだった。
 よる夜中、悪魔たちに脅かされながら、求めてもいない欲情に乗せられて、アレンを抱く。だがそのときでさえ、レナルトは怯えていた。
 組み敷いているのがアレンではなくアルンハイムであったら、と思うと、塔の窓から飛び降りたくなる。埒をあけた瞬間に、悪魔がアレンの顔で笑って、「とうとうおまえはアレンに恋をしたのだな!」と宣言するのではないかと悪夢を見る。
 レナルトの憔悴は日増しにひどくなっていた。
 それまでは、なんとしてでもアレンを連れて逃げだすのだと気を張っていた。だが少しずつ、レナルトの心にも諦めが広がりつつある。もう遅いのではないか。レナルトはアレンに恋をしてしまっているのではないかと。
 窓から景色を眺めることが増えた。同じ部屋にいるアレンを目に入れるのが苦痛だったし、あの日以来、雲が晴れて太陽が見えることも頻繁にあったからだ。そうすると、二人のいる塔の部屋からは、アルンハイムのランドスケープ・ガーデンを望むことができた。
 それがなんで出来ているか知らなければエデンにも見える、花園だ。むしろ、それがなんで出来ているのか知っているからこそ、楽園に見えるのかもしれない。悪魔アルンハイムに祝福された、至福の魂たちが集められて出来た楽園だ。
 窓から塔の足元を見おろせば、固い石畳が広がっている。――飛び降りたら十分に死ねる高さに見えるが、果たして、この悪魔の領土で、普通のやり方で死ねるのかは疑わしい。
 アレンの魂を悪魔のものにするくらいなら、その前に死んでしまったほうがいいのではないか、とレナルトは考えだしていた。
 決して朽ちてゆかないテオフラストの花を見ていると、それが唯一無二の方法に思えて仕方がない。なにはともあれ、アルンハイムに願うことだけはしてはいけないとテオフラストは言っていたのだから、死ぬしか他に道がない。
 だが、自分で命を断つような勇気を探すのにもくたびれていた。
 レナルトが生気を失うのと引き換えに、アレンは意思を取り戻しつつあった。アレンはいまだに、あの錬金術師から話を聞きだすことを諦めていない。陽の昇っている時刻には城の中をさまよっているのだが、あれ以来、彼女には会えていないらしい。この領土のどこかにいるのだろうが、アルンハイムの領土は、決して狭い場所ではなかった。
 少しずつ時は過ぎつつあった。壁の刻み目は増え続け、レナルトの視界には、二人のアレンの姿がちらついている。幻は交互に現れて、彼の正気を少しずつ削っていた。雨水の雫がぽたりぽたりと落ちてゆくように進む狂気に、全身が死体のように熱を失ってゆく。
 どうなるのか想像をするだけで胸が冷たくなり、死んでしまいたくなった。
 アレンには、アルンハイムの姿が変わりつつあることを告げていたが、少女の姿が見える、とは言わなかった。
「レナルト、まだなにも終わってない」
 アレンはそう言い続けていた。レナルトは苦しそうに寝椅子カナッペに体を預けて、傍に身を寄せるアレンから目を逸らしていた。
 レナルトには、アレンがなぜそんなことを言えるのか理解できなかった。レナルトがアレンに恋をしたら、アレンの魂は悪魔のものになってしまうのだ。ずっとそれに怯えていたのはアレンのほうだった。それなのに、崖っぷちが見えて来たいまになって、アレンはしっかりと目を開きつつある。
 諦めていないからなのか。それとも、アレンにとって、レナルトに愛されることは魂を失うことよりもなお大切なことなのか。
 絶望がレナルトの胸をとっぷりと浸しつつある。
 悪魔の思うがままになることへの絶望と、アレンが魂を奪われてしまうということへの絶望と、そして、そのときアレンとレナルトは永遠に離別しなければならないということへの絶望だった。
 既にレナルトは、アレンに半ば依存し、恋や愛などを飛び越えたところで思いを傾けていた。二人を繋ぐものはもはや友情ではない。ではなんなのだろう。
 あの花園に組みこまれることは確かに至福だろう。だが、本当に悪魔たちの言うその口車に乗っていいのか。そのときアレンを失ったレナルトはなにで心を埋めればいいというのか。
「諦めたら駄目だ」
 アレンはレナルトの手を握ってそうくりかえした。それは慰めではなく、アレンが真剣に言っているのに気づいて、レナルトは腹立たしくなった。こんな状態でどうしてそんなことを言えるのか、なんの根拠があって、そんなことを言えるのだろうか。毎晩毎晩、休みなくレナルトに、レナルトだけではなくてアルンハイムや悪魔たちに犯されているのに、なぜそんなことが言えるのか。
 レナルトはアレンの手を振りはらって、冷たい目で彼を見た。
「なにを取るべきなんだろうな。おまえの幸福か? 俺の幸福か? いまなら錬金術師が言ったこともわかる。俺がおまえを愛してやって、その上で、アルンハイムに『元の世界に返してくれ』と頼むんだ。それが一番幸福だ。俺もおまえも」
「レナルト」
「けど、俺は悪魔なんかに魂をやりたくない」
「俺の魂は俺のものだ。……アルンハイムにやるつもりなんてない」
「よく言うぜ」
「なんとでも言えよ。アルンハイムを喚んだのは俺だ。けど、俺は魂をあいつになんか渡さない。俺はこの城から出て行く。ここにとどまったりなんか、しない」
「俺がいま死ねば、おまえの魂があいつのものになることはないんだよな」
 ふっとレナルトが遠い場所を見て呟くと、アレンは顔を強ばらせた。
「レナルト」
「おまえが二人いるのが見えると、すぐに死んだほうがいいんじゃないかって思うんだ。俺がおまえを好きになったら、どうなるかわかってるんだろう」
 レナルトは、かつてのアレンの絶望がよくわかった。悪魔アルンハイムとレナルトの二人を同時に目に映したとき、アレンはどんなに絶望しただろう。
 もっともそれも慣れるのかもしれない。いずれはいまのアレンのようにまた立ち直るのかもしれない。
(そのとき、アレンが俺の前にいるのなら、だけどな……)
 最善の道がどれなのか、わからない。レナルトが目を閉じると、脳裏には少女の姿をしたアルンハイムが、彼にむかって微笑みかけているのが浮かんだ。その手がレナルトの魂を救いあげてくれるのを無性に願った。
 彼女のことを思うときだけ、冷たい胸が、生ぬるい湖に浸されたようにじんわりと緩んだ。

 どこまでも疼痛が続く。アレンの心境に変化があっても、毎晩行われる責め苦は変わらなかった。夜ごとにアレンは押し倒されて、全身を火に焼かれるような苦しみに耐えなければいけない。
 快感に酔い痴れて肉体がいびつに歪むのがわかる。はじめに苦痛だったものがやがて快楽に変わり、それも、過ぎれば苦痛でしかなくなる。それでもまだ、アルンハイムや他の悪魔たちの慰み者になっているよりは、レナルトに抱かれている方がましだった。
 レナルトは、逃れられるものからその苦役から逃れたいと思っているだろうが、アレンはレナルトがよかった。それなのに、ごめんと親友にむかって呟きながら、アレンはささやかな幸福さえ感じていた。元の世界に戻ったら(やはりアレンは帰ることを諦めていなかった)こんなことはしてもらえないだろう。
 苦しそうにアレンを抱いているレナルトの顔を見凝め続けるのが辛くて、顔を背けずにはいられなかった。
 堂内にはレナルトの息づかいと、唇を割って漏れて行く自分の声、それを笑うレナルトの(アルンハイムの)声が響いている。本当に地獄だ。
 体中が溶けだしてしまいそうな恐ろしい快楽を与えられながらも、すべてを拒んで目を閉じていたアレンは、なにかを思ってふと見あげた。レナルトの、色素の薄い瞳が目の前にある。薄緑のその瞳はかつて見たことがないほど優しいものだった。
 穏やかなどこか遠くの湖の、湖面を見ているようだった。熱に浮かされた快楽も、強要される性交への苦痛もない。とても、静かで、暖かかった。レナルトの瞳に自分の姿が映り返っているのが見えて、アレンは、いままで苦しんでいたことのすべてがどうでもいいと思えた。彼のその瞳を見ることが出来ただけで、すべてが報われた。くちづけさえ、もう不要だ。
 アルンハイムに願ったこととは違っているのかもしれない。だが、とても深い深いところで、レナルトは既にアレンのことを愛してくれている。その思いは悪魔の世界までやって来なくても、ゲルトルートで十分に手入れることのできたものだったに違いない。はじめから、アレンも特別なものを求めていたわけではなかったのだ。あの夜になにかが狂いだしただけで、レナルトにそうやって見凝めてもらえるだけでよかったのだ。本当に、それだけのことを望んでいたに過ぎないのだ。
 薄い緑の湖水の色をしたその瞳が、アレンのすべてを満たした。体も、その心も。
 残されたのは、レナルトの苦悩だけだ。それを取り去ることはとても簡単だとアレンは思わず笑んだ。こんな茶番はもう終りだ。呪詛も祝福ももうおしまいだ。
「アレン……!」
 レナルトが苦しみと愛しさの溶けあった声で、アレンの名前を囁いた。
 倶友の目に見凝められながら、アレンは最後の絶頂の中へと落ちていった。

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