第三章 4th. エデン
《das eden》

 寝椅子の上でいつの間にかうたた寝をしていたらしい。よほど疲労していたのか、いつもなら寝るにしても塔にある部屋まで戻るのだが、そこは学書棟の地下だった。
 レナルトが宵闇の中で目を覚ますと、遠くから近づいて来る靴音が耳に聞こえた。その響きに、眠りを妨げられたのだろう。あるいは、その足音が意味するところの恐怖で妨げられたのかもしれないが。
 歩き方の様子からして、アルンハイムだろう、と彼は思った。いくらか体を強ばらせ、隣の部屋に続く拱門を見凝めた。明かりは既に随所に灯された蝋燭ばかりで、薄暗く、近づいて来る悪魔の姿はまだ見ることはできなかった。
 次第にアルンハイムが見えて来て、レナルトは暗闇になおも目を凝らした。なにか、アルンハイムが腕に抱えているようだったのだ。はじめはアルンハイムが不自然に手をひろげているのかと思った。だが、そうではなく、悪魔はアレンを抱きあげているのだった。
 暗く沈んでいた姿がゆれる焔に照らされて来ると、アレンが血まみれなのがわかった。肌は生気をすべて流しつくしたように青白い。さながら死者のような力なさに、レナルトのみぬちを本物の寒気が走った。
 アルンハイムは早くもそんなにアレンを苛んだということなのか。だがどこか違和感が拭えない。まだ真夜中ではないのだ。
 認めたくなかったが、悪魔は近づいて来る。
 レナルトは立ちあがり、悪魔を待った。悪魔の顔は、今日は白い仮面にしか見えていなかったが、そんなことでは慰められなかった。体は氷のように凍え、駆け寄ることもできない。
 アルンハイムはレナルトの傍らに寄り、いままでレナルトが腰かけていた寝椅子にアレンを横たわらせる。その頬は青い血管を見ることができるほど血の気を失い、触れると冷たかった。
 胸はかすかに上下しているし、アレンが生きていることだけはわかった。喉の辺りは生々しく赤い血が飛び散っており、凝固すらしていないところを見るとこの血がまかれたのはいましがたのようだ。服は、その血のせいでびしょぬれになってしまっている。しかし血の生臭ささえ、レナルトに届かなかった。それほどなにもかもが冷たい。アレンの胸に手を触れると、びしゃりと指に血が絡みついた。
 これまで、何度となく恐怖に襲われたが、いま感じている恐怖はそれとはくらべものにならなかった。恐怖とはなにかが違う、それは絶望だったのかもしれない。アレンの姿を見た瞬間に、レナルトの中からもなにかが奪い去られてしまったようだった。魂の根幹に、人が(いや、生きとし生けるものすべてが)持っているべきなにか大切なものが、奪い去られてしまったのだった。
 死ぬのなら自分であるべきだ、とレナルトは思っていた。願いを叶えようもないのであれば、アレンは呪いから自由になれるはずだからだ。なのになぜ、ここで血まみれになっているのはアレンなのか。
「アレンになにをしたんだ」
 そう言いつつも、悪魔がなにかをしたわけでないのは、レナルトも承知していた。アルンハイムは鉄を打ち鳴らすような声で応えた。
「命を助けたのだよ。イグニシウスは自ら喉を抉ったのだ」
「いったい、なんで」
「しばらく休ませるのだな。日没があと一瞬遅ければ、イグニシウスの命はなかった。よく見張れ。二度と馬鹿なことをさせるな。おまえの願いが叶う日はすぐそこなのだと、言っておけ」
 だが、それこそがアレンの絶望なのだ。魂は悪魔のものとなり、レナルトとは永遠に別れてしまう。それが怖かったから死のうとしたのか。そう思うけれど、アレンを本当に理解できていないようにも感じた。
 アレンは諦観から立ちあがっていた。諦めない、元の世界に帰るのだと、あれだけ強く宣言したのだ。いまさら、この世界に絶望して命を絶つだなんて解せない。
 むしろそれは、もはやレナルトには存在しない勇気の結果なのではないのだろうか。
 アレンが死ねば、レナルトは自由になる。悪魔から解放されて、ゲルトルートに戻れる。そのためにアレンは決断を下したのではないのか。
 レナルトをなによりも打ちのめしたのはそのことだった。飛び降りてしまいたいと望みながら、飛び降りることができないレナルトのために、アレンはいとも簡単にその敷居をまたいでしまった。流れた血の量を見れば、アレンが死ななかったのが不思議なくらいだ。
 レナルトはアレンの足元に座りこんで、無心に彼の手を握り、その眠りを見守った。彼が目覚めたとき、言ってやれればよいのに。これまでのすべては悪い夢、なにもかもが幻で、嫌なことは起こらなかったのだと。アレンも苦しんでいないし、レナルトも、苦しんでいないのだと。悲しみも痛みもすべてが夢だったのだと。
 だが言うことはできなかった。それは嘘だったし、この悪魔の偽りの世界が、いまやレナルトとアレンにとっての現実なのだ。
 手を握りしめながら、レナルトは息を詰まらせた。嗚咽がこみあげて来て、きつくアレンの手を握りしめながら涙をこぼした。
 自分がいままで、アレンのためになにができたのかと胸に問えば、なにもないガーニヒツ、という空疎な音が響いて来るだけだ。この領土に二人で落ちて来たことを、レナルトはずっとアレンの身勝手な恋心のせいだと思っていた。少なくとも、レナルトに責任はないと。それは偽りだった。アレンはレナルトへの想いのために、悪魔を喚びこむという越えてはならない境界線を突破したのだが、それはレナルトのためなのだ。彼のためにそんなことをしてくれる人間が他にいるというのだろうか。彼のために命を断ってくれる人間が、他にいるというのだろうか。
 レナルトが、そのアレンの想いに応えたとき、アレンの魂はアルンハイムのものとなる。こうしてアレンの手を握り、胸苦しさに押しつぶされていると、そのときがいま来てもおかしくないのではないかと思ってしまう。
 こんなにも胸が痛いのに、なぜ苦しいまま、アレンの願いが叶わないのだろう。
 これがまだ恋でないというのが理解できない。早くアレンに恋をして、彼を苦しみから自由にしてやりたかった。そのあとでレナルトもなんでもいいから悪魔に望みを言おう。簡単なことでいいのだ。あの花園の花になりたいという願いでもいい。
 早く終わりたい。
 錬金術師の言葉は正しい。アレンを救うためには、彼に恋をしてやる他になにもないのだ。

 目を覚ましたアレンは、相変わらず真っ暗な世界にとどまったままなのに気がついて、激しく落胆した。アルンハイムの夜が来る前にと思って、燭台を使って喉を突いたはずだ。だが痛みは残っていない。服は生乾きで、ぞっとするような生臭さを放っていたから、突いたこと自体は夢でなかったのだろう。だがアルンハイムは間に合ってしまい、アレンの命を助けたのだ。
 アレンは寝椅子に横たわっていた。傍らのレナルトは、アレンの足に上半身を投げだしていた。その手は、しっかりとアレンの手を握りしめている。
 レナルトがアレンのことをなにがしか思ってくれていることは確かで、だから、どうしてまだアルンハイムの呪いが成就しないのか不思議だった。なんだか知らないが、アレンの望みとは食い違っているところがあるのだろう。もう、儀式のときの文言は思い出せなかったが、アレンが悪魔に望んだことと、なにかが違うのだ。
 レナルトは目を腫らして寝入っていて、心配をかけたことがわかった。喉を突いてすべて終わりになると思ったのだが、またレナルトに余計な負担をかけてしまった。日増しに痩せ衰えていくレナルトを見ているのが辛かったのに、うまくいかなかった。
 いままた死を図ったほうがいいのかと思ったが、壁には蝋燭が灯っている。まだ夜だということだ。なにをしても、すぐにアルンハイムに癒されてしまうだろう。
 視界の端に白い影が見えて、アレンは顔を上げた。亡霊のように佇んでいるのは、錬金術師だった。何日も何日も城中を探して歩いていたが、会えていなかった。避けられているのだろうとわかっていたから、彼女が傍にいたことに少し驚く。もしかすると、アルンハイムに言われて、アレンの容態を見るために立っているだけかもしれなかったが。
 ともあれ、アレンが体を起こすと、彼女も足を踏みだした。そして死人のような青い唇を開いた。
「のう、イグニシウスよ。そなたはなぜその名を与えられ、この城へと連れて来られたのかわかっておるか?」
「なぜ?」
「そうじゃ。イグニシウスという名を与えられ、アルンハイムの君の領土へとさらわれたそなたは、なぜそなたがここにいるのか、わかっておるのか?」
「……俺の願いを叶えるためじゃないのか」
 アレンが低い声で返すと、錬金術師は首を振った。
「アルンハイムの君はなにゆえにこの領土を持っているのか、そなたは考えたことがあるのか? なぜあの花園にいる魂が満ち足りた魂でなければならぬのか? そなたは考えたことがあるのか?」
 少女がなにを言いだそうとしているのか、アレンにはわからなかった。戸惑ったまま、問われたことを考えてみようとした。
 悪魔が取引をして魂を奪うのは当たり前のことだと思っていた。人間が食い扶持を稼ぐのと同じように、悪魔にとって、人間をたぶらかして魂を得ることが生業なのだと。だからそのわけなど、いままで考えたこともなかったのだ。
「わらわは、アルンハイムの君がそなたを見いだした夜を忘れられぬ。アルンハイムの君はそなたを手に入れられることが幸運だと言っておった。幸運グリュックリヒカイト! 地獄に繋がれた悪魔にとって幸福とはなんなのか、そなたには考えもつかぬじゃろう。じゃがわらわにはわかる。わらわは気が遠くなるほどの永い黄昏の中で、アルンハイムの君のことだけを思って生きて来たのじゃ。そう、わかるか。わらわはこうなってもまだ生きておる。この時のない世界で、わらわはずっと生き続けて来たのじゃ」
 うつろな赤い瞳で、錬金術師はアレンを見凝めた。
「あの花園はもう間もなく完成しよう。そなたの魂がアルンハイムの君のものとなったときに! アルンハイムの君は、わらわでも知らぬほどの昔から、花園を創り続けて来た。そしてそなたを見いだした。確かに幸運じゃろう。本当はあの方が堕天したというのもうわべのことで、すべてが神の御意志に他ならぬのかも知れぬ。イグニシウスよ、そなたはあの楽園でなにになるか知っておるのか。そなたの師は水仙であった。であればそなたは?」
「さあ、そんなの……」
「あの園の中央に一本の樹が立っておる。大きく、豊かに葉を茂らせた樹じゃ。それもだれかの魂よ。そなたはその樹に実る赤い果実となるのじゃ。高い芳香を放つ、赤い心臓のような果実に、そなたの魂が生まれ変わる。その樹と果実の名前はそなたでも知っておろう」
「見たこともないのにか? 知っているわけがないじゃないか」
生命いのちの樹じゃ」
 アレンははっとして、聖書の創世記に出て来る樹木のことを思った。それは、アダムとエヴァがもいで食べた智慧の樹と並んで生えていて、失楽園の後は、ケルヴィムの持つ炎の剣に守られているという。その果実を食べた者は永遠の命を得るのだ。
 だがアレンは思わず笑った。悪魔の築いた庭園に、その生命の樹とは笑わせる。いくらなんでも、アルンハイムの身の程知らずは滑稽だった。
「悪魔の花園に?」
「美なるものは善悪の概念そのものよりも真に近いものじゃ。造園はそれそのものが新しい天地創造の模倣じゃ。そなたは笑うか、イグニシウス。あの花園を見てもなお、悪魔の戯言と笑うか。アルンハイムの君がなぜ悪魔に身を墜とさねばならなかったのか、わからぬのか。あの方に愛されておるそなたが、わからぬのか!」
「愛されてる……だって? 俺が、アルンハイムに」
「生命の樹に魂が実ったとき、この楽園は完成するのじゃ。そなたは楽園に命を吹きこむ息吹なのじゃ。だからこそ炎の名を持ち、生命の木の実となる。あの楽園はエデンとなる。それこそがあの方の望みぞ」
「エデン?」
 アレンはやはり当惑し、錬金術師の言葉に不安を覚えた。悪魔と似ても似つかわしくない言葉ばかりが続いていた。
「我らの世界ではもはや楽園は失われた。それは天使にとってもそうなのじゃ。あるいは神にとってさえ! アルンハイムの君は、もう一度始めようとしておる。新しい天地、新しいエデン、新しい魂で。だからこそあの庭は至福の庭なのじゃ。だからこそ、アルンハイムの君にこの上もなく愛されたそなたが生命の木の実となるのじゃ!」
 悪魔に似つかわしくないと思いつつも、あの庭を思い出して、アレンは胸がざわめくのを感じた。ゲルトルートの太陽に照らされ、風に揺られる花々や小川。野に満ちるかおり。そのすべてが至福だった。
 その中心に自分の魂が宿るのだと教えられると、悪魔に魂を売り渡すおぞましさなど消し飛んでしまう。レナルトのことなど、そのときは頭に思い浮かばず、ただ、アルンハイムの楽園で木の実となることだけで幸福感に満たされる。
 ここは失われた楽園となるのだ。
 新しい世界の源となるのだ。それが幸福でなくてなんになろう。
 だが錬金術師は微笑んで、アレンの手を取った。それは、自分を傷つけたときに溢れた血で汚れていたが、少女は構わず、両手で包んだ。
「しかれども、決して、そなたをアルンハイムの君のものにはさせぬ」
「なに、」
「アルンハイムの君の魂は右の赤い眼に宿っておる。右じゃ」
「どうしてそんなことを教えるんだ」
 彼女はアルンハイムのしもべであり、悪魔に恋をしている。それなのに、アルンハイムの魂の在り処を口にしてしまった。
「その眼を抉ればアルンハイムを倒すことができるんだろう?」
 魂の在り処を知っていても、アレンは手を出せないと思っているのか、それとも――
 けれども少女はうっとりと笑う。
「そなたは忘れておらぬか、わらわはアルンハイムの君のくちづけが欲しいのじゃ」
「憶えているさ」
「ならなぜ、そのわらわが、アルンハイムの君が生命の木の実にと望むほど愛しておられる魂を、あの方に差しだすことができようか? なぜ、アルンハイムの君の恋が満たされることを許せようか?
 アルンハイムの君の命を奪うのが、あの方に愛された炎の魂であるのならなおのことよい! それゆえにわらわはそなたに教えるのじゃ、イグニシウス。レナルトでなく、そなたに。
 わらわの歪んだ愛を笑うか? されど、わらわが愛したのは人ではないのだ。そしてわらわは、人が耐え切れぬほどの永いあいだアルンハイムの君を愛してしまったのじゃ。それが歪まずにどうしておれよう?」
「本当に恋をしているのか」
 アレンは思わず、そう尋ねた。錬金術師は頷く。
「何百年のもの月日が経ち、友も、縁も、智恵も、理性も、若さも、美しささえ、なにもかもがわらわから消えうせたが、はじめてあの方を見たときのことだけは忘れられぬ。それを思い出せば、わらわもそなたたちのような若く、しなやかで、美しかった頃に戻る心地じゃ。
 ゲルトルートの願いをそなたは知っておるまいな? ウラッハ城を永遠に朽ちさせぬこと! 話を聞いたときは、わらわもゲルトルートの願いにいたく感銘を受けたものじゃ。この美しい城が、永遠に陥ちぬようにと魂を売るゲルトルートはなによりも崇高じゃった。しかし、そんなことはアルンハイムの君と出会ったわらわにはどうでもよいことじゃった! あの方のためならなにもかもが陳腐な望みよ」
「……いいのか」
「ゆくがよい、イグニシウス」
 そう言うと、白い少女は服の中に手を入れてから、蝋燭の明かりに鈍く光るものを取り出して、アレンの手に握らせた。あかがねのナイフだ。軽量化を重ねて来た現代のサバイバル・ナイフにはない合金の重さが、アレンを身震いさせる。その不吉さは、アルンハイムの領土の不吉さではなく、少女の愛の禍々しさだった。
「どうすればあの方を無防備にさせられるかは、そなた自身がアルンハイムの君に何度も教えられているはず」
「ああ、そうだな」
 アレンは思わず立ちあがろうとして、体の上にレナルトが倒れていることを思い出した。自分の体も重た過ぎて、彼の重さを感じていなかったのだ。身じろぎしたせいでレナルトは呻いて、目覚めかけている。アレンはナイフを握しめながら、アルンハイムのところへは一人で行こうと思った。
 いまさら、レナルトが傍にいたからといって弱くなるというわけではない。だが、アルンハイムを喚んだのはアレンだった。あの夜、アレンは一人だった。だから、一人で悪魔の眼を抉るというだけだ。
 膝の上にもたれかかるレナルトの胸が、温かく、愛おしくて、アレンは笑った。昨日の晩に感じた充足感は消えていない。レナルトのためだったら、まだどんなことでもできると思う。それから、少女を見あげた。
「……本物の……アルンハイムはどんな姿をしてるんだ?」
「右の瞳は血のように赤く地獄の業火の色をしておるが、左の目見まみは濁ったような灰色で、まるで盲いているように焦点は合わぬ。かつて天におられたみぎりには、右も左も濁った灰の色をしていたという話じゃ。おおかた、天使どもというのはそういう眼をしておるのじゃろう。あの方々に人間のような、瞳で見凝めるならいはないであろうから。
 金の髪の美しさは、あの方がいまも御使いでないというのが不思議なほどよ。夕映えに輝く麦畑のように黄金の色をしておる。
 なぜ、あの方は人間どもの前にそのままの姿でおいでにならぬのであろうな? あれほど美しい方であれば、どんな男もどんな女も、魂まで捧げようものを。イグニシウス、そなたであれ、どれほどレナルトを愛していようと、あの方の元に膝を突き、魂を捧げると誓おうものを」
 錬金術師は、あどけない幼女のように瞳を輝かせてアルンハイムのことを口にした。現世にあったときの彼女は、とても愛らしかったに違いない。しかしその顔を一転させ、奈落の底に住まう妖魔の顔になって、彼女は続けた。
「もう明け方が近うなっておる。ゆくのだ、愛された者よ、イグニシウス!」
 それはアレンに道を示した救い主の声ではなくて、運命を迫るフォルトゥナートの命じる声だった。激しい声音でアレンに告げると、錬金術師は蛇のような、静かで滑らかな足取りで部屋から消えた。
 少女がいなくなったあと、アレンは、しばらくレナルトを見おろしていた。
 永遠にこのままなにも起こらなければいいのに、と思った。悪魔も黄昏も訪れず、レナルトも目覚めなければいいと。このままで、時を止めてしまいたい。けれどそんなことはありえない。
 アレンはナイフを懐中にしまうと、レナルトの肩を優しく叩いた。
「レナルト」
 ゆるゆると少年は目を覚ます。
「レナルト」
 まだ覚醒しきらないレナルトの耳元に、アレンは二度、甘い声でそっと名前を囁いた。
「……アレン?」
 上体を起こすレナルトの下から、ゆっくりと足を引き抜く。アレンはレナルトの腕を僅かに引き、微笑んで告げた。
「わかったんだ」
「なに」
「アルンハイムの魂は、右だ。……俺は行って来る。俺が失敗したら、おまえがやれよ」
「アレン?」
 レナルトは理解しただろうか。わからない。けれど、彼がまどろいんでいるうちに、アレンはその場から駆けだした。アルンハイムがどこにいるのかは知らない。カンバスに閉じこめられたゲルトルートの絵姿の前を過ぎ、彼は朝の気配が近づいた戸外へと飛びだした。少しずつ、夜の気配が遠のいている。錬金術師が言ったように、朝は間近いのだろう。すぐ傍で松明がひとつだけ消えたのを見て、アレンはなにも考えず走った。夜が終われば悪魔はいなくっなてしまうから、その前に追いすがって眼を抉らねば――
 考えている時間などなかった。目指す場所はあそこしかない。アレンは、霧と闇に包まれてなおその影を浮かびあがらせる塔を見た。
 すべてが始まった場所、〈シャロットの塔〉だ。

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