エゴンシーレの監獄 01
《Das Gefaengnis von Egon Schiele》

 対向車のライトが、夜闇をさまよう蛍のように、ふらふらとしながら過ぎていく。だがふらふらしているのは車などではなかった。
 幾台も通り過ぎていく車を目で追う。何度やっても、そのライトはふらふらとさまようばかりだった。孝輔自身がふらふらと揺らいでいる。車のライトが揺らいでいるわけでは決してなかった。
 タクシーに乗って、孝輔は一人、自宅マンションを目指していた。
 葬儀のあった寺からマンションまでは、タクシーでもそれなりに時間がかかるが、電車にもまれて帰宅する気にはなれなかった。車で送ってもらうのも気疲れしていたから断って、黒い喪服姿のまま、孝輔は沈鬱な顔でシートに身を預けていた。
 タクシーにしてよかった。ひとりで車に乗るのも、人間が山ほどいるのに孤独でしかない電車も苦しい。けれどタクシーでは決して孤独ではなかった。静かだが、ひとりじゃない。しかし息が詰まるような親密さもない。
 順調に道を進んでいたタクシーの運転手は、「冷えこむようになって来たから、お葬式も辛いですね」と言う。
 孝輔は少し考えてから、列席していた人々の青い顔を思い出して、ああそうかと思った。
 あれは寒かったからか。
「そうだな……」
「どなたの葬儀だったんですか」
 尋ねられて、返事に困った。世間話として口に出来るものではなかったのだ。孝輔が黙りこんだのを見て、運転手もそれを察したようで、すみませんと言い添える。孝輔はさほど暗くなりすぎないように言おうとしたが、だめだった。
「……妻の葬儀だったんだ」
 妻の葬式を終えて、ひとりになりたいと親戚に断り、タクシーを使ったのだ。
 妻の理紗が死んだのは、急性白血病というものだったので、彼女の具合がおかしいとわかってからその日が来るまでがあまりにも慌しく、正直なところ、孝輔はまだなにも実感できていなかった。
 黒づくめの服で黒いネクタイをしめ、それを緩める気さえ起きていなかった。
 呆然としているのは、孝輔がなにもしないでも葬儀が済んでしまったからだった。本当になにもしなかったわけではない。葬儀までにすべきことはしたはずだ。
 ただ、なにもかも周到に用意されすぎていた。理紗に葬儀へ呼ぶ人間のリストを渡されたのは二週間ほど前だったが、彼女はすがすがしく笑いながら、青白く痩せた顔でなにもかも手配し終えていた。戒名も葬儀の費用の捻出先も、香典返しのレベルも、なにもかも決めてあった。孝輔は、彼女が決めたマニュアルどおりに右から左へと物を動かすだけでよかったのだ。
 もう少しなにかすることを残しておいてくれたっていいんじゃないかと思うのだが、彼女はそういう女だった。結婚式のときもそうだったなと思い出して、孝輔は舌を噛みたくなった。なぜ結婚式は一緒にするものなのに、葬式というのはどちらかのものでしかないのだろう。
 彼女がいなければ生きていけない、というわけではなかった。そうではないのだ、ただ、あまりにも急にいなくなったので、孝輔はその変化についていくことが出来なかった。
 タクシーの運転手との会話は続かなかった。マンションについたときは十時を回っていて、料金を払うと彼はぼんやりとしながら門をくぐった。
 どうして自分が一人きりで帰ろうとしたのか、孝輔にもわからない。ただひとりになりたかった。
 マンションの部屋はあかりがついていないし、冷え切っているだろう。そこに戻って俺はひとりで泣くんだろうか、と思いながら、孝輔は部屋の鍵を開けた。
 けれど予想に反して部屋は電気がついていて明るかった。理紗や孝輔の両親を含め、親戚たちはホテルに部屋を取っているが、葬儀の準備などもあって、ここに泊まる夜もあった。だから、孝輔がひとりになりたいと言ったのを聞いていないだれかが戻って来ているのかもしれなかった。
 ぐるりと見回すが、リビングに人影はない。電化製品のスイッチはなにも入っていない。
 バスルームから水の音が聞こえるので、シャワーを使っているらしい。玄関に靴がなかったこともあり、だれなのかわからないのも不気味だったので、バスルームを覗いた。水音はしているが、洗面所に脱いだ服もなかった。声をかけても返事がない。水が出しっぱなしになっているのはおかしいと思って、彼は意を決してガラス戸を開いた。
 ざあざあとシャワーから水がバスタブに注ぎこまれている。孝輔はあまりの情景に大きく口をあけて立ち尽くした。バスタブに両腕をつっこんで男がひとり、意識を失っている。黒づくめの喪服は孝輔と同じで、靴まで履いていた。バスタブはにぶく赤に染まっている。男の傍には剃刀が落ちていて、言うまでもなく、バスタブの中の男の手首はぱっかりと傷が開いている。
 呆然としている場合ではなかった。バスタブから男の身体を引きあげる。筋肉質のせいでひどく重たい。喪服をびしょぬれにしながら孝輔は洗面所に男を寝かせた。明るく染めた茶髪が、びっしょりに濡れている。だれだこいつは、と困惑しながら脈をはかり、一応心臓が動いているのを確かめながら、彼は携帯電話を喪服から取り出す。一一九番を押しながら、それがだれかを思い出した。
 理紗の従兄弟だ。
 だれかはわかったが、だからといってマンションで自殺を図っている理由は知らなかった。
「すみません、救急車を。部屋で自殺を図って――」
 電話のむこうからは、落ち着いてください、という声が聞こえる。
「俺は落ち着いています。俺の部屋で、自殺をしている奴がいて――意識なし、心臓は動いてます。手首を切ってるんですけど、どれくらい血が出てるのかはちょっと。水で流れててわからない」
 そう言うと電話のむこうもすぐにてきぱきと移送の手配に入った。住所を聞かれたのでそれを応えて、最後にこう付け加えた。
「サイレンは鳴らさないでください」
 シャワーを頭からかぶり、孝輔もすっかり意識がすっきりしていた。というよりも、他に対処することが出来たから理紗のことが頭から抜け落ちていた。やっぱりおまえはなにもかもやりすぎだったんだ、と孝輔はこの部屋にはいない理紗にむかって悪態をついた。
(おまえがいなくなるんだから、せめてなにかを俺に残していけよ)
 理紗にすれば「立つ鳥後を濁さず」の心境だったんだろう。頭がくらくらする。
 孝輔はそもそも自分で物事をコントロールできないと駄目なのだった。……というわけでその椿事はある意味、孝輔の役には立った。
(まあ、これが残してったものだなんて思いたくはないが)
 はた迷惑な妻の従兄弟をどうしたものか。親戚にこの事態を伝える気になれなかった。明日は告別式と火葬がある。なにかすべきことがあるのは歓迎できたが、厄介ごとは勘弁してほしかった。
 洗面所にあった包帯で、男の傷口を少し上で縛って止血してから、廊下をびしょぬれにしつつ玄関まで引きずった。あとからバスタオルで拭いてやるが、からだは冷たいままだ。二枚のバスタオルでくるんでやったが、本当は服を脱がさないことには効果が少ないはずだ。しかし男は明らかに孝輔よりも大柄で、身長は大差ないのだが、孝輔の服が入るとは思えない。Tシャツかパジャマくらいなら着られるだろうか。ばたばたとしながらパジャマを引きずり出したところで、チャイムが鳴った。救急車が到着したのだろう。孝輔はインターホンを取って、救急隊員に来てもらうよう頼む。男は孝輔の目の前であっという間に連れて行かれた。
「あれなら大丈夫でしょう。命に別状はありません」
 一人だけ残った救急隊員はそう言い、孝輔は肩を竦めた。彼にとってはいいことかどうかわからなかった。
「自殺ですか」
「そうらしい」
「病院まで来ていただく必要がありますが」
 そのとき、男を引きずり出したときに濡れたせいで自分もびしょぬれだということに気がついた。あらためて廊下を見てみれば、惨憺たる状態だった。壁も床もぼとぼととしずくが滴るほど濡れている。冷静だったつもりだが、孝輔も案外動転していたのかもしれなかった。
 髪をかきあげながら孝輔はため息をついた。
「彼はすぐに搬送したほうがいいんでしょうね。俺もこの有様なので、着替えたいのですが」
「わかりました。聖路加病院の救命救急にむかう予定ですので、あとからいらしてください。場所はお分かりになりますか」
「ああ。ありがとう」
「それで患者の名前は」
 問われて孝輔は戸惑った。名前がさっきから思い出せなかったのだ。まず苗字が理紗の旧姓と一緒なのかどうかも記憶の中で定かじゃない。孝輔のその様子に救急隊員も困惑していた。それで仕方なく、状況を説明する。
「妻の従兄弟なんだ。名前が思い出せない」
「奥様は」
「今日が葬儀だった」
「そうですか、ご愁傷様です。では他に、ご親族は」
「なるべくなら騒ぎにしたくない。結婚式のときの招待リストをひっくり返せば思い出せるんだが」
「……所持品からわかるかもしれません。待っていてください」
 救急隊員はあわてて救急車と連絡を取り始める。孝輔はタオルで長めの髪をぬぐいながら名前を思い出そうとしたが、彼が結婚式で座っていたテーブルのことくらいしか思い出せなかった。
 理紗の従姉弟は三人いた。十くらい年上の女性、それと男の兄弟だった。たぶんその兄弟の弟のほうだろうとは思うのだが、名前は思い出せないままだった。理紗の作った葬式のリストには、当たり前だが親戚は省かれていたので、今回のことでは名前を目にしていない。
 しかしあの青年はきちんと財布かなにかを持っていたらしい。救急隊員はレシーバーから顔を上げると、孝輔にむかって彼の名前を言った。
「菊池櫂、だそうですよ」
「あー」
 孝輔が納得した声を上げたのを見て、救急隊員はいっそう困ったような顔になった。
 救急車を見送り、孝輔は出かける準備を始めた。
 着替えて廊下を拭いたあとにタクシーを呼び、待つ間に櫂が着られそうな服を探す。カジュアルな服装ならどうにかなるだろうと紙袋につっこみ、タクシーに乗った。
 病院に到着して菊池櫂の名前を出すと、櫂はすでに一般病室に移されていた。看護婦から状態を聞いたが、輸血と傷の縫合をしただけなので、問題なければ明日には退院して構わないということだった。意識も一度戻ったが、また眠ってしまったらしい。
 孝輔は、病室をのぞいて、昏々と眠っている櫂の傍に立った。どうして俺が、妻の葬儀で手一杯の俺が、こいつの面倒を見なきゃならないんだ、と思うと怒りよりも脱力感が勝った。なにしろ考えてやるのは一に生きている人間、二に死んでいる人間だろう。どういう理由で自殺を図ったのか知らないが、救急車を呼ぶ程度は人間としての義務だ。
 ――告別式には無理をして来ないように。家族には伝えておく。なにかあれば携帯に。090-****-****。小倉孝輔。
 服と一緒にそう書いたメモを残して、病院を後にする。
(あと何時間も寝られないな)
 マンションに戻るタクシーの中で、車内にとりつけられた時計で時間を確認すると、すでに三時だった。明日は、八時には家を出て寺にむかわなければいけなかった。
 櫂は、家族になにか言い残して来たのだろうか。それともなにも言わないで来たのだろうか。なんにせよ、明日の告別式の前に櫂のことは言ったほうがいいだろう。
 しかしなんのつもりであんなことをしたのか、孝輔にはわからなかった。葬儀で櫂がどんな様子だったかまでは、孝輔は記憶にない。自分のことでいっぱいだったのだから当たり前だろう。
 マンションに辿り着いた孝輔は、寝室にある理紗の鏡台の前に腰を下ろした。
「心当たりあるのか、なあ」
 櫂はそこまで理紗に思い入れがあったのか。それは孝輔の知らない理紗の過去なのだろうか。櫂は従姉弟なのだから、孝輔の知らない時期を知っていて当たり前だが、このマンションで自殺を図ろうとした意図にはいまさら苛立ちを覚える。ここは理紗の家だが、孝輔の家でもある。あんな青年に、土足で上がりこまれるいわれはない。
 理紗はあけすけな性格だったので、アルバムにいままでつきあった男との記念写真がきちんと貼ってあって、どれがどんな男だったか孝輔は知っていた。その中に、当たり前だが櫂の姿はなかった。櫂の写真など、本当に子供時代のものだけだったろう。理紗からはあまり櫂の話を聞いていない。
 いったいなんの関係があるんだ、と頭を抱えたが、考えているだけでは答えは見つからない。寝てしまおうと立ち上がった孝輔は、はたと喪服が使える状態ではないことに気づいた。ぬかった。人命救助のためとはいえ、唯一の喪服を駄目にしてしまった。明日の朝までに乾くかどうかも怪しいし、乾いたとしても着られる状態じゃない。寺で貸衣装があったはずだから、それを利用するしかないだろう。
「くそう」
 孝輔はため息をついて、布団にもぐりこんだ。

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