神と聖霊










 数日間、学校に顔を見せていなかった永井潤の登場は、透にも朱生にも予想外のことだった。もう彼はこの学園には来ないのではないか、という見解が生徒たちの間で暗黙のうちに了解されていたのだ。"セッション"がおさまるならともかく、毎日、患者と死人は増えていくばかりなのだ。不眠不休で活躍したって、彼の出番が終わるとは思えなかった。

 千条朱生は、ぽかんとした様子で口を開けた。

「永井 潤」

「……潤」

 透も、思わず潤を呼んだ。たった一週間ほどの間、会わなかっただけだというのに、潤の顔は知らない人間のようだった。――いややっぱり、よく知っている顔かもしれない。どこか冷たくて、近寄りがたかった。それは、透には見憶えのない表情だ。けれどよく知っている。いまだかつて、永井潤はその表情を透に見せたことがないだけだった。他の人間にはいつも見せていた表情だった。

 透たちと親しくしながら、潤は、彼らのように波乗学園の生徒たちと距離を置いていたわけではなかった。仕種や表情も明るく親切で、おさななじみでなければ瀬野透のそばにいるような人間には思われなかった。それなりに普通に友人も持っていたし、三宅や十字たちにはさほどなじまなかった。潤にとって、もしかすると友人と呼べるのは透だけだったのかもしれない。それ以外の人々には、いつもふとした瞬間に寄りがたい表情をした。なにかを画するような、そんな様子を感じさせた。

 いままで、透には決して見せなかった顔だった。

 潤は厳しい瞳で千条をねめつける。

「透に変なことを吹きこまないでくれ」

「君に任せたほうがずっと、えげつないことになるんじゃないの?」

 だが、千条のほうもさるものだ。動ずることなく肩を竦める。潤は舌打ちをした。

「透、こんな奴のたわごとは聞くな」

 透は、潤を見つめながらどこが変わったのかを仔細に見つけようとした。だがだめだ。ここが変わった、あそこが変わった、と名指しすることはできなかった。だけれど、変わったのだ。

 彼は"セッション"を癒す神に遣わされた救世主であり、透は悪魔なのだ。翼ある蛇こそ、透の呼び名だ。

 透は言った。

「面白いのが揃ったな。"セッション"をばらまくやつと、"セッション"を癒すおまえと」

 潤は冷たく返す。

「じゃあ君は"セッション"の患者なのか?」

 透はにやりと笑った。

 緊迫した空気に茶々を入れるのは千条だった。

「穏やかじゃないな。まるでそうあってほしいって言ってるみたいに聞こえる」

 そう言われると、いくらかむきになったように潤は言った。

「そうであっても構わない。僕にとってそれが大した問題じゃないことはわかるだろう? 君こそ、"セッション"をばらまいているんであれば僕に感謝でもしたらどうなんだ?」

「僕にとっても大した問題じゃないから」

「人殺し……君は"セッション"患者を見たことがあるのか!」

「君がしようとしているえげつないことに較べたらずっとましだ」

「なんのこと?」

「しらばっくれても。瀬野のことをどうしてしまうつもりなんだ?」

「黙っててくれないか」

 その言い方が本気だったので、千条は空を見上げながら口を閉じた。透は潤を見つめ、ただ言った。

「――潤、おまえもくだらないことを言うのか?」

「くだらないこと?」

 顔をしかめる潤だが、透にはその心をうかがうことはできなかった。それはたとえば、さっきまでの千条がなにを考えているのかわからなかったように、奇妙なことを言う三宅の顔が不気味な信念に貫かれているように見えてよくわからないように、大村沙夜教諭のふるまいがなにもかも知ったようで理解できないように。

 案の定、潤は苦笑して透のわからないことを言った。

「どれの、どこがくだらないんだ。ひょっとして、あれか? 僕がおまえを殺し、おまえが僕を殺すとか言うやつ?」

「それだよ。……」

 痛い。太陽の光はもう真夏が来たかのように、容赦なく透の膚を刺した。まるでこの世の最後の赤色太陽が放つ、生き物を殺す有害光線ばかりの陽光のようだ。

「なにが言いたいんだ、透」

「ずいぶん冷たい返事だな。仮にもお互いに殺しあう仲なんだぜ。同じ道を歩むんだろう、俺たちは」

「そうとも限らない。……まったく違う人生かもしれない」

「結局は同じだ。まったく違うか、まったく同じか。同じことだ」

「どうして同じことにこだわる? 君の言霊は呪われている! それでどれだけの人が不幸になったんだ。僕の言霊は祝福されている」

 潤には既に、透が口を出してどうこうという部分は残されていなかった。彼は"セッション"を癒す救世主なのだ。彼にはすべきことがあるとでも言いたげだ。そして、それに透は関わりがないのだった。

 透は顔を背けた。

「これ以上、おまえと話したくない」

「僕は……君に話したいことならたくさんある」

「話したくない。
 千条、あんた、こいつの相手をしてくれないか。俺にはもうできない。……疲れたんだ。ここは熱すぎるし、明るすぎる。俺は行くよ」

 千条は仏頂面で首を振った。

「永井の相手? 御免だよ。それは君の義務だ。少し話し合って、相互差異を深めたらいい」

 そう言うと、潤の傍をすぎて、扉に消えた。潤はしかめっ面でそれを見送る。透は千条のあとを追う機会を失し、屋上に潤と二人、残された。

 太陽の光の下で潤を見ると、かすかに透から目をそらして足元を見つめる姿は、端整な容貌もあいまって神々しさがあった。一度も見たことのない他人だったなら、ああ、こいつが救世主なのかとだれに教えられるまでもなくわかったかもしれない。

 それは、長いこと隣にいた親友の姿をしているだけに奇妙だった。

 こうして彼の前にいると、頼子の言葉が思い出された。

 ――彼は"キリスト"、神の子。人を滅ぼそうとしている"神"の子よ。

「……透」

 潤が彼を呼んだ。その目は、今は透の手を見つめている。透がその視線を追って自分の手の中を見ると、そこには薄灰色をした一枚の羽根があった。頼子が落していったあの羽根が、いま透の手の中にあるのだった。

「それはなに?」

 透は答えなかった。透はそれがなにかを知っていた。潤もまた、問いつつそれがなにかを知っているはずだ。

 彼は羽根を空へと投げ上げた。羽根は太陽の光の中で変容し、一羽の鷹となって羽ばたいた。羽根と同じ色をした灰色の鳥は、太陽へとまっしぐらに昇ってゆき、やがてそのまぶしさの中に姿を消した。

 二人はその鳥を見上げ、太陽を見つめた。やがてまぶしさにくらんで視線を戻すと、潤が口を開いた。

「――"セッション"の流布は、ひとつには撰別という意味がある。"セッション"があらわれることははじめから決まっていたことなんだ。そうでなければ、千条が"セッション"の伝染源だとしたって、そうでならなんで、日本だけじゃなくて世界中に"セッション"が広まっているというんだ?
 天意が僕らを撰別する。生き残る者、生き残らない者とに。それはつまり、新しい天地へ移動できる者と、移動できない者との撰別なんだ。これは神のふるいだ。
 もうひとつの意味は、その天意を人々に知らせないための機能を果たしている。人は知らないうちに撰別されなくてはいけない。撰別されることを知っていると、不正を働くものが出てくるからだ。
 君はどうするつもりなんだ。"セッション"の伝染源を暴き、僕の邪魔をしようというの。それなら呼ばれるのかもしれない。君は神のサタンだと」

「おまえは本当に救世主なのか。イエス・キリストか?」

「それを認めているのは君だ」

「俺を、サタンだと呼んでいるのもおまえだよ」

「そうだ」

「ようやく会えたと思ったら、それしか言うことはないのか?」

「何度だって言ってやろう。火の時はもうすぐだ。人は撰別される。僕の存在如何に関わらず、"セッション"はさらに猛威をふるい、多くの人間が死ぬだろう。君はそれをとどめることはできない」

「矛盾してる。おまえは"セッション"を癒すんだろう?」

「生き延びたいと望むものには機会が与えられる。それだけだ、それだけ」

 千条の言ったとおりだった。その言葉の中で、透はますます潤から離れていくことを感じた。もう違う存在なのだ、そういわれている気がした。元通りにいることは許されないのだ。違う道を進まなくてはいけない。その行く先がどこへ通じている道なのか、透にはわからなかった。潤には見えているのだろうか。それは頼子が言うように、いま潤が言うように、新しい世界をもたらすことだというのだろうか。それならば透はどうすればよいのだろう。

 透はこの世界の守護者なのだった。焼き滅ぼされようとしている、旧き世界の。それは醜く、神や高潔な救世主からは耐え難いしろものなのかもしれない。心が傷むと言いながらニネヴェを滅ぼしたあの神のように滅ぼすのか。透はそれを妨がなければいけないのか。悪魔と呼ばれながら、潤によって救われない人々を守るのが務めなのか。

 ――それが俺の道なのか。

「なんだか楽しそうね。あたしも混ぜてくれない?」

 不意に声がした。潤も驚いて振り返っている。腰に両手を当てて、笑いながら大村沙夜が立っていた。

「先生、どーしてここに?」

 透は教師の介入を至極いやそうに咎めた。野次馬根性が丸見えだったが、彼女は気にした様子もない。

「ああ、また君たちなんでしょ、柵を落としたの。今度は城遠寺じょうおんじくんが被害にあったわよ」

「俺じゃねえ、千条だ」

「あら、朱生くん? 馬鹿ねー」

 からからと笑いながら、千条を名前で呼ぶ。そういえば、大村は千条を気に入っているとかいう噂を聞いたことがあった。透は大村の破天荒ぶりにため息をつきつつ、自分も「透くん」と呼ばれていることに気がついてぞっとした。他人から見れば、大村沙夜と千条朱生の関係も、透との関係も変わらないように見えるということだ。

 透が失せろと言う前に、潤が言った。

「大村先生……あなたはひっこんでてください」

 たとえ透が失せろと言っても意味はなかっただろう。彼女は愉しそうに笑うばかりだ。

「心配してるのよ。色んなものにまどわされているあなたたちを見ていたら、ほっとけないわ」

「たった今、楽しそうって言ったのはどこのだれだよ」

 呆れたように透は言うが、焼け石に水だ。大村は潤も透も、ひとしなみに見下すと口を開いた。

「私はこれでも教師よ。放っておけないの。
 あなたたちの姿はたったひとつのものではない。瀬野透であれば悪魔でもあり、永井潤であればメシアでもある。それはだれかの呼び名に過ぎないわ。名前なんてしょせん名前でしかなく、呼ばれたからふりむかなくてはいけないなんて義務もない。求められたから手を握り返すだなんて必要もない。すべてはあなたたちが撰び取り、決め、歩いてゆくだけでいいのよ」

「先生が俺を悪魔だって言ったんだぜ」

「悪魔だって呼び名に過ぎない! 悪魔と呼んで、その呼んだ人間が悪魔という言葉になにを求めているのかは呼ばれたあなたには知れないでしょう。私が悪魔と呼ぶときと、だれかが悪魔と呼ぶときでは、その意味が違うのよ」

 潤は静かに、ぽつりと訊いた。

「――救世主という呼び名も?」

「悪魔となんの違いがあるの?」

 大村は高らかに笑った。少年たちは間合いを計りかね、大村沙夜の言葉に心をゆすぶられた。本当になにかを知っているとは思えないのだが、その仕種は透を不安にさせるのに充分だった。潤はなにも言わずに踵をかえす。

 大村は透を見つめて、

「そういえば今日は透くんの誕生日だったわね。おめでとう」

「別に嬉しくない」

「これで二人とも十七歳。もう子供ではいられないわね」

「勝手に大人にするなよ。いつも、ひとのことを子供扱いする癖に、」

「それは仕方ないわよ。私のほうが、どうやったって長く生きてるんだもの。でも、それだけよ。私はあなたより先に生まれて来た。それだけなのよ」

 屋上の扉が閉まる音がした。潤が出て行ったのだ。









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